炭酸水

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 ペットボトルのキャップをひねると、ぷしゅっと小さな音とともに二酸化炭素が空気中に飛び出した。広くはないホテルのスタッフルーム、その音は部屋にいるたった二人の人間が共有することになる。
「和智くん」
 透明な液体の中で空気の粒が光を乱反射、くるくると回りながら煌めくその粒を、白いワイシャツに紺のエプロンをつけた少年がペットボトルに口をつけてこくこくと飲んでいく。
「和智くーん!」
 こくり、こくりと喉を動かして少年は順調にボトルの中を空気で満たしていく。
「…………和智くんっ!」
 ドスッという鈍い打撃音と激しく咳き込む音とが狭い室内に響いた。和智と呼ばれた少年は、ひとしきり咳き込んだ後に短くけほっと息を吐いてから口元を拭った。
 天然パーマのせいで跳ね返った茶色の毛先を一度くしゃっとなぜ、同じく茶の三白眼を不満げに細めて自らを殴打した手の持ち主をにらみつける。不機嫌さを隠そうともしないで眉を寄せる姿はどこか猫を思わせた。
「なにするんですか、静さん」
 静、と呼ばれた女性は手刀を構えたまま和智以上に不満げに目を吊り上げた。ワイシャツにエプロンというシンプルな恰好は和智と同じだが、首元まで垂れる長い黒髪のポニーテールがどこか大人の女性としての雰囲気を醸し出す。
「だって和智くんが無視するんだもん」
 歌うような口調で流れ出たのは見た目にそぐわない子供じみた台詞で、むっと口をとがらせた顔は彼女を幼く見せた。しかし、各パーツの造形のよさはやはり子供のそれとは違い、スラリとした長身も相まって「美少女」ではなく「美人」と定義するに相応しいステータスを保っていた。
「まったくもう……で、和智くん。きみの持ってるそれはサイダーかな? そうなのかな? サイダーだったら嬉しいな。和智くんも知っての通り、お姉さんサイダーが大好きなんだよねぇ!」
 液中で弾ける粒よりも目を輝かせ、静は和智の手元のボトルを凝視した。和智はやれやれと首をすくめたあと、おとなしく彼女にペットボトルを差し出す。満面の笑顔でありがとー、とつぶやいた静は受け取るや否や中身を勢いよく呷った。しかし、
「うぇー……和智くん、これ、なに……?」
「ただの炭酸水です」
 言ってけらけらと和智は確信犯に違いなく、静は頬を膨らませた。甘さを期待していた分無味の水との落差は激しく、舌に残る違和感は相当に大きい。その腹立たしさに突き動かされ、静はパイプ椅子に座る和智の背後へ回り込むと彼のエプロンを締め上げた。
 ――――ポーンッ
 ふざけあいを制するように備え付けのインターホンがまぬけな音で鳴った。つまり、来客。しばし顔を見合わせた二人は無言のままにジャンケン、肩を落とした静がインターホンの受話器をとる。そして、
「なんでこうなるんですかね」
 数十秒後、和智の肩には一人の幼女がいた。
「わちくーん、あそぼー!」
 ぐいっと髪を引っ張られ、少年は顔をしかめる。
「しょうがないでしょ、どうしてもって頼まれちゃったんだから」
 外出する客に頼み込まれては、サービス外と言えど無下に断ることはできない。しかしそれでも上手い断りかたはなかったものかと和智はため息をついた。三十分だけ、と言っていたらしいが、休憩時間は残り四十分しかないのである。
「まぁまぁ、子供一人くらいかわいくっていいじゃない! むしろ癒されるでしょ? それにしても、」
 言葉を切って静は和智を見る。無愛想で目つきの悪い和智は客受けのいい方ではない。初対面ともなればほぼ百パーセント静の方が印象がいいはずなのに、部屋に入って彼を見るなりダッシュした幼女は、和智から離れようとしない。
「わちくーん、あっちむいてほーいしよー」
 静の見守る中で和智は幼女に十連敗、ほっぺたをぐにぐにとひっぱられている。
「ひふははん、はふへへ……」
 変顔のまま力なく頼む和智がおかしくて、静は助けることもなく声をたてて笑っていた。先ほどまでのこにくたらしさがすっかり失せ、珍しく困っている和智が新鮮に映る。
 ――――ポーンッ
 再びインターホンが鳴り響く。まだ十分も経っていないが、もう帰ってきたのかもしれない、と和智が希望と安堵の表情を浮かべる。少し残念に思いながらも静は立ち上がって受話器をとった。そして、
「なんでこうなるんですかね……」
 数秒後、部屋には七人の幼児に囲まれる和智の姿があった。
「わちくーん、とらんぷー」
「わちくん! ヒーローごっこしよ!」
「わちくん、たかいたかいしてー」
 あちこちから呼ばれ、引っ張られ、和智は苦笑する。加減容赦のない攻撃を浴び、飛びつかれ、髪も服もくしゃくしゃにしながら少年は笑っていた。
「もう……静さんも見てないで助けてくださいよ!」
 思い出したように顔をしかめる和智に、静はにっこりとほほ笑んでみせた。

「わちくん、またねぇー」
最後の一人を見送って、和智はパイプ椅子に沈み込んだ。結局、休憩は五分も残っていなかった。
「お疲れ様、大変だったねぇ。はい、お水」
そっと静が差し出したコップを素直に受け取って例を言うと、和智は中身をろくに確認しないままその透明な液体を一気に飲み干した。その途端、
「げほっ……静さん、まさか……」
 光る粒の炸裂に苦しみ出した和智に静は絶妙な笑顔で歌うように告げた。
「うんっ、たーんさーんすーい!」



 炭酸水/インターホン/昼休み
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