酒勢

Novel
「俺たち、結婚するんだ」
 幼なじみの放ったその一言はやや酔いの回った頭には難しすぎてよく理解出来なかった。俺たちって誰だろう。ぼんやりとする視界に映る人間を確認する。発言した張本人の朝日がいる。赤ら顔は俺と同じだろうが、目はこいつのほうがしっかりしているかもしれない。薄い唇が笑い出しそうに震えていて、得意げになっているのがわかった。
 その隣には、目を伏せてしおらしく見せている夕子がいる。いつもは口うるさい彼女が今に限ってはおとなしい。幼なじみで飲もうと言って朝日の家に集まったため、今この場にいるのはあとは俺だけだ。つまり、俺たちとは朝日と夕子のことになる。長い前髪のかかった夕子の頬が紅潮しているのはきっとアルコールのせいだけではないのだろう。目が合うと意識的に俺の視線を避けて俯いた。
「年が明けたらに式を挙げるんだ。スピーチを頼んでもいいよな?」
 そう言ってにかっと笑った朝日は上機嫌にビールを呷る。酒に強くもないくせにやたら早回しで飲んでいく彼を不信に思ったのは十数分前のことだったが、なるほど、こういうことだったのか。水くさいな、というのが正直な気持ちだ。二十年も幼なじみをやっているのに酒の力を借りなければ言えないことがあるのか。俺たちの関係はそんな他人行儀なものだったのか。そう口にしかかって慌てて言葉を飲み込む。どうやら俺も酔っているらしい。
「ちょっと、飲み過ぎじゃない?」
 夕子の声がして目を開ける。開けてみて初めて自分が目を閉じていたことに気づいて一人で苦笑した。見れば彼女は朝日からビール缶を取り上げており、夕子の言葉が自分でなく朝日にかけられたものと気づくと気持ちが退廃に向かい、浮上させるべくまた酒を浴びた。
「もう、将吾までそんなに飲んで……」
 あれこれ世話を焼く彼女は一人だけいつも通りで、同じピッチで酒を飲んでいるとは思えなかった。ふと彼女の周りを見るとしかし朝日と俺を併せたよりも多くの空き缶が散らばっていた。
「まあまあ、もういいじゃないか、もう大事な話は終わったんだしよぉ」
 そう言って朝日は床に転がった。もう限界なのだろう、顔は燃えるように真っ赤で、凛々しく整えられていた眉もだらけきっていた。細身だが筋肉質の朝日が転がっては俺も夕子も動かす術がない。しばらく揺すってみたが徐々に鼾が聞こえ始めたから、やれやれ、と首を振って俺は空の缶を投げ捨てた。
 この話をするための飲み会と知っていたなら俺はそれでも来ただろうか。ずっと好きだったのだ。本当に好きだったのだ。それでも告白できなかったのは幼なじみの関係に甘えていたからではない。朝日が夕子に想いを寄せていると知っていたからだ。そして夕子が俺を好いていることも。三人それぞれ恋人と呼べる人間を持ったこともあったが、常に心の底には同じ想いを抱えていたはずだ。だから俺たちはずっとこの三角関係を続けていくものだと思っていた。いつまでも、このままだとどこかで安心さえしていた。それがこの様だ。
「将吾ー? あんたも寝るのー?」
 またいつの間にか目を閉じていたらしい。目を開けると夕子が下からのぞき込んでいた。緩んだTシャツの首もとから汗で光る谷間と下着が見え、俺は視線を逸らす。
「いつから付き合ってたんだよ」
 少しぶっきらぼうに言って新しい缶を手に取る。ぬるくなったチューハイは喉を癒すこともなく肝臓の負担だけが増していくようだった。
「先週プロポーズされたのよ、いきなりね」
 夕子は先程の俺と同様に空き缶を放りながら答えた。その投げやりな響きには彼女がこの結婚を手放しで喜んでいるのではない、ということがありありと見て取れた。朝日のことだ、勢いで押し切ってここまでこぎつけたのだろう。
「なんだよ、つい最近じゃないか。思い切ったことしたなぁ」
 他人事のように呟くと夕子が上目遣いに俺を睨んでいた。目の潤みはアルコールのせいなのか、それとも。
「そもそもアンタがねぇ!」
 バシッと床を叩いて夕子が叫んだ。瞳の潤みが涙となって溢れ出す。そう言えばこいつは泣き上戸だったななんて冷めた思考の裏で、悪魔が俺に囁いた。この女、まだお前に惚れているんじゃないか、と。そして囁くと同時に俺の体を乗っ取った。何事かを呟き続ける夕子の顎を掴み、強引に唇を重ねたのである。
「んぐっ……」
 驚いて目を見開いた夕子は始めこそ首を少し振るも、やがて抵抗することをやめた。舌を唇に這わすと躊躇いがちに口を開き、歯の裏をなぞれば甘い息を返してくる。空いた手を胸元に這わすと下着の抵抗の奥に恐ろしいほどの弾力が待っていた。
 こうすれば、と悪魔が嘲う。こうすればお前は大事な人を失わずに済むぞ、と。それを知らなかったのではない。俺の持つ僅かな倫理という天使がたちはだかっていたのだ。天使が酔いつぶれた今、俺の中にこの欲望を止められる者はいなかった。
 十数秒に及ぶ口づけを終えると、甘く緩んだ夕子の顔があった。そのとろけた表情を見ながら俺は未だに彼女の胸を揉みしだいていた。人よりも大きな彼女の乳房は確かに気持ちがよかった。しかしまだだ、まだ足りない。俺は夕子の肩を押す。彼女は押されるがままに仰向けになると覚悟を決めたように薄く微笑んだ。彼女のシャツを捲り上げて紅に染まる裸身を晒すと、俺はゆっくりとそこに覆い被さった。

 夕子は妊娠した。そしてそれを朝日に隠すようなことはせず、俺たちの一夜は彼の知るところとなった。朝日は驚き、怒ると同時にどこか安心した風でもあった。
「お前でよかった。夕子がずっと好きだった、お前で」
 悔しげにそう言うと、朝日は寂しそうに微笑んだ。彼もまた夕子の想いを知っていたのだ。だからこそ、最初から結婚を申し出たのだろう。彼女が揺らがないように。
 俺は夕子と結婚した。当初気まずかった朝日も生まれた娘をを見に来るようになり、やがて頻繁に顔を出すようになった。三人で酒を飲んだ時には「見張ってないと寝取るぞ」なんて冗談さえ言うようになった。だがしかし、彼が一度も聞かないことがある。朝日だけでなく夕子も聞かないことが。どうしてあの夜に襲ったのか、と。きっと彼らは俺から夕子への好意と酒の勢いとが半々だと思っているのだろう。それでいい、それでいいんだ。だけどもし聞かれたら酒の勢いで言ってやろう。
『ずっと朝日が好きだったんだ』

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