マシュマロ

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 月島有紗はいつもビニール傘を差している。それも百円だろうボロボロの古い傘だ。小学校の頃から高校に入ってからもずっと、ビニール傘を使っている。小学生の頃は、僕を含めた周りの人もビニール傘だった。あまりにもビニール傘だらけだから、自分の傘とわかるように、僕の名前火野和希の頭文字“火”の字を青いペンで傘の柄に丸で囲んで書き、セロハンテープを上に貼ったりしたくらいだった。けれど、中学校、高校となるにつれビニール傘は少なくなった。特に女子は可愛らしいものが多くなり、月島のボロ傘が目立つ。一度理由を聞いてみたい。だけど、実際に話そうとすると照れるというか恥ずかしいというか、やっぱり言葉が出てこなくて…

「それは恋ってもんだよ、カズキ」
金井樹はニヤニヤしながら僕にそう言った。僕は視線を樹から窓の外へと移し、土砂降りの雨の中を歩くビニール傘を見つめる。粒の大きさと激しさのせいで水のカーテンが舞っているかの様な外には華やかな傘が溢れていて、やはりビニール傘はどこか見すぼらしい。
「大体さ、誰がどの傘かなんて普通は見ちゃいないぜ? 月島の傘を完璧に覚えてるってことは、それだけ月島を見てるってことだろ。やっぱりそれは恋じゃねぇの?」
「そんなんじゃないよ」
窓の外に目を向けながら僕は小さなマシュマロを口の中に放り込んだ。少ししつこいくらいの甘さがトロリと溶け、舌にベタベタと纏わりつく。このベタベタだけは、どうも好きになれない。
「違わないさ。カズキは月島にホの字なんだよ」
ケラケラと笑う樹を横目で睨む。そもそも、こいつが傘を忘れたと言うから雨脚が弱まるのを一緒に待ってやっているのだ。それなのになんで僕がこんな話をしてるんだ?
「ま、いいや。帰ろうぜっ!」
「雨、まだ強いよ」
「だって弱まる気配ないだろ? バイトに遅れちまうぜ。待たせて悪かったな」
本当にこいつはなんなんだ、全く。

「火野って有紗と付き合ってるの?」
水谷薫にそう聞かれたのは、朝から小雨の続いていた日だった。僕は思わず本気で紅茶を吹きそうになり、むせた。
「な、なんでそういう発想が出るんだ!? 別にそんな関係じゃあないよ!」
涙目になりながらそう答えると、水谷はつまらなそうに「ふーん」と喉を鳴らした。
「違うって。カズキの一方的な片思いなんだよ。なぁ?」
「『なぁ?』じゃないっ! 樹、お前いい加減にしろよ?」
こいつには本気で紅茶をかけてやろうかと思いつつ、僕はマシュマロを食べる。水谷が樹に何事かささやき、二人揃って笑い声をあげる。水谷は月島と仲が良くて、驚いた事に樹の彼女だという。僕にはこの男のどこがいいのか全く理解出来ないのだけれど。
「じゃあさ、有紗が告白してきたら、火野はどうする?」
「そんな事、あるわけないだろう」
「だから、もしもの話だ。考えてみろよ」
もしも、月島に告白されたら…? 僕はどうするだろうか。嬉しいか嬉しくないかと言えば、嬉しい。だって月島は髪が長くてキレイで、瞳が大きくて、線が細くて、そういえば声も澄んでいて良かったなぁ…それに色白だし、性格だって別に…
そこまで考えて僕は気付く。樹と水谷が凄くニヤニヤしている。二人そっくりな顔で、僕を見ている。
「…なんだよ」
僕は仏頂面になりながら口にマシュマロを入れる。甘い。
「いや…別に、凄いマジになって考えてるから、なんかもう…おかしくて…」
そこまで言って樹は肩を震わせて笑い始めた。水谷も涙目になっている。僕はふてくされてもう一つマシュマロを食べる。その甘みを味わいながら月島を思い浮かべる。総合して単純に言えば、可愛い。可愛いし性格もいい。もしかしたら、『好き』かもしれない。でも、『恋』かと聞かれればそうは思いたくない。僕が思う『恋』は、マシュマロみたいなものだ。最初はフワフワして甘く、心地良い。けど、だんだんと舌に絡み付いてベタつき、嫌な後味を残す。月島への想いはそうなって欲しくない。もっと爽やかな、例えばミントガムみたいな方が絶対に長く持続できるのだ。でも、そんな想いをなんて呼ぶのかは、僕は知らない。

「火野君も帰るの? じゃあ一緒に帰ろうよ」
月島が僕にそう言ったのは、天気雨、いわゆる狐の嫁入りの日だった。雨の日に樹と一緒にいるとまた月島の話をされそうで逃げてきたら、昇降口でビニール傘を差した月島と出くわしたのだ。
「うん、いいよ」
小学校が一緒なのだから当然家も近いわけで、僕らは二十分くらいは一緒に歩く。返事をしてからその事に気付いた僕はなんとなく少し照れ、マシュマロを食べる。
「火野君っていつもマシュマロ持ってるよね。いつからだっけ?」
「どうだろう…僕も覚えてないなぁ。あ、月島も食べる?」
「うんっ。ありがとう」
柔らかく、それこそマシュマロの様にフワフワと微笑んだ月島は、可愛い。横顔を見つめ僕は思わず赤面した。心臓が馬鹿みたいに大きな音を立てる。本当に、隣りの月島に聞こえてしまいそうだ。
「火野君見て! 空、凄くキレイだよ!」
月島の歓声に引っ張られて見上げた空は、確かに美しかった。真っ白な空と澄み渡るスカイブルー、普段の晴れた日よりもキレイなんじゃないだろうか。
「うわっ!」
雨粒に顔を直撃され、僕は声をあげた。小雨のくせに大きい粒が頬で弾ける。慌てて傘をかざし、袖で顔を拭っていると、隣りで月島がクスクスと笑っていた。
「そんなに、おかしかった?」
「いや、違うの。ビニール傘だと傘の中から空が見えるから、顔に雨が当たるのは考えなかったなぁ…って」
言われてみればそうだ。ビニール傘なら天気雨だろうと土砂降りだろうと真下から空を見上げる事ができるのだ。そう考えると、今まで見すぼらしいとさえ思っていたビニール傘が凄く素敵なものに見えた。そして、ビニール傘を通して空を見ている月島も、凄く素敵に見えた。

正直に言おう。僕は月島有紗の事が好きだ。そしてこれは、恋だ。樹の言った通りなのが癪に触るが、どうも誤魔化しようのない事実らしい。けれど、それが分かってもどうしようもない。僕には告白する勇気なんてない。マシュマロの様に甘い恋は、マシュマロの様に刹那に溶けて、消えてうくだけなのだ。

「火野クンさ、この前有紗ちゃんと一緒に帰ってたでしょ」
木原早苗が僕にそう話しかけたのは夕立に見舞われた日だった。その後ろに樹と水谷ねニヤニヤ顔が見え、やっぱり雨の日は運が悪いと僕は息を吐いた。
「たまたま、帰りが一緒になっただけだよ」
たまたま、の部分を強く言ったが、樹が相変わらずのニヤけ顔で混ぜ返してくる。
「たまたま、ねぇ…俺にはどうも、慌てて教室を飛び出して行ったように見えたけど? 月島を追いかけたんじゃねぇの?」
「それは雨の日にお前といたくなかっただけだ」
今だって帰りたいけど傘がないんだ。
「なんだかんだ言って火野ってやっぱり有紗の事…」
「素直に言えば楽になるぜ?」
絶妙なコンビネーションをみせる樹と水谷に対し、僕はマシュマロを食べて一呼吸置く。ピンチだ。前回と違って今の僕には月島のことが好きだという自覚がある。ついうっかりボロが出ないとも限らない。追い込まれた僕は、この話を出した木原に恨みの籠った視線を送る。
「なぁ、どうなんだよ。はっきり言えよ」
「何も恥ずかしい事なんてないよ。火野、言っちゃえ!」
「だから、違うって言ってるだろ。一緒に帰ったのはたまたまだ。それ以上でもそれ以下でもないっ!」
僕はそう叫ぶと鞄を掴んで二人から逃亡した。これ以上は本当にまずい気がする。逃げたせいで余計な憶測をされるかもしれないが構うものか。それはあくまでも憶測だ。本音が漏れてしまうよりはましだろう。改めて思う。雨の日は、ついてない。

「あ、火野君だ。一緒に帰ろうよ」
月島と再び一緒に帰ったのは梅雨があけた後の、穏やかな雨の日だった。なんとなく周囲が気になる僕と空が気になる月島とでは会話もなく、すぐ隣りにいるのに凄く遠くに感じられ、その空気に耐えかねた僕はマシュマロを取り出した。
「月島、マシュマロ食べる?」
「うん。ありがとう」
月島の差し出した左手にマシュマロを載せる。その時、彼女のビニール傘の白い柄に何か青いものが見えた。
「月島、傘の柄に何か書いてる?」
よく見ようと覗き込んだ僕の前で、月島はビクッとして左手を柄に戻した。
「別に、何も書いてないよ?」
「…? 何か青いものがついてるよ?」
月島の反応に一瞬キョトンとした後、僕はニヤリとした。ふざけているのだ。俯いて真剣な顔で何か考えている月島の顔は心なしか紅潮しているように見える。僕は笑いながら自分の傘を月島に押し付け、彼女の手からビニール傘を奪い取った。
「あっ……」
悲鳴のようにも聞こえる彼女の叫びを聞きながら僕は傘に目をやると、絶句した。
「月島…これって…」

小学校の五年生の時だったと思う。夕立にあって帰れないでいる月島に、僕は自分の傘を貸してあげた事があった。クラスが違ったから返してもらう機会がなく、僕もビニール傘一本なんていつまでも気にするわけもなく、すっかり忘れてしまっていた。その時も、確か僕の傘の柄には青いペンで火の字に丸がしてあった筈だ。

「月島…これって…五年生の時の…?」
月島の傘の柄には青い火の字が丸に囲まれていた。よくそんな長く使えるなぁ…とそんな呑気なことも考えてしまう。月島は首の辺りまで真っ赤に染まり、顔をあげない。
「うん……」
消え入りそうな声で彼女は呟くと、意を決したように顔をあげ、僕を見つめた。
「あの時、凄い傘嬉しくて、でもだからってわけじゃなくて、もっと前から…三年生でクラスが一緒になった時から、私はずっと、その…ずっと私は…っ」
泣きそうに潤んだ月島の目を見つめながらそんな事を言われていたら、僕がじっとしていられるわけもなく、彼女が最後まで言うのも待てず、僕は月島を抱きしめた。肩の辺りでもごもごと発された大事な最後の一言を拾いあげると、マシュマロの様に甘かった。雨の日も、悪くない。

「カズキ〜? お前また月島と一緒に帰ってたんだって〜?」
樹にそう尋ねられたのは台風に直撃されたひどい雨の日だった。水谷と木原がドアの前にいて、逃さないぞ、という気迫が伝わってくる。やっぱり雨の日はついてない。
「たまたま会っただけだよ」
素っ気なく言ってマシュマロを口に放り込んだ。甘さが溶けて広がっていく。やっぱりマシュマロと恋は似ている。ちょっとやり過ぎなくらいに甘くて、でもその甘さについつい頬が緩んでしまう。いつかベタついて嫌になる時がくるかもしれないけど、彼女とならそのベタつきだって好きになってやる。でも今はそんなことより、この甘さを月島と二人で噛みしめていたいんだ。きっとそれが、僕にとっての恋だから。


マシュマロ/青いペン/ビニール傘
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