薫風に揺れて

Novel
 


 尾上かおるが東京高等女学校に入学したとき、誰もが卒業できないだろうと確信した。それどころか入学したことに驚きを示す者さえいた。それほどにかおるの周りには色めいた話が多かったのである。
 ことの起こり はかおるが十のころに開かれた尾上家での新年の賀会。生まれこそ華族であるが財に貧しく優雅とは遠く生きてきた尾上昭唯は集めた華族の大臣共を満足させるにはいささか興を欠いており、官吏であるが故に俗世の話 より他に能のない彼が雅をよしとする面々を退屈させるに 時間はかからなかった。やがて客たちの腰が軽くなったほどに、襖を開いたかおるは龍笛を携えて宴の中央まで進み出ると、狼狽する父を無言で制して「衣由羅」を吹き始めたのである。
 低音からの昇り調子はたちどころに居合わせた大貴族たちをそこに縛り付けた。四半刻 もない短い時間であったが、かおるの音は天翔る龍の如く伸びやかに舞い、雲を潜っては雷雨を降らせた。その最後の一滴が地に滲みて、ようやく歌口から唇を離したかおるは礼をしてみせた。礼をしてまた何も言わずに昭唯の後ろに控えたのである。
「彼女は誰かね」
 客の中で一等家格の高い三条大臣が尋ねると、昭唯はやや口ごもりながら答えて言った。
「はい、私の先妻の子でかおると申します。まだ十になったばかりで礼もなく、このような振る舞いをいたしまして大変申し訳ありません」
 この三条大臣は八年前に先妻を亡くした昭唯に今の妻を紹介した本人であり、また予てより尾上とは浅からぬ縁の男であったからもちろん彼と先妻の間に子があることは承知のはずであった。しかしそれが絹のように艶めいた髪と肌に、これほどの雅楽の才があるとは知らなかったのだろうか、まるで初めて出会う令嬢を相手にするかのように丁寧に問いかけた。
「いや、構わぬ。かおるさん、他にも吹いてもらえるかな」
「承知いたしました」
 すゞやかに曇りのない声でそう答えると、かおるは次々と龍笛の独奏を先にも増して高らかにやってみせたのである。それ以来、かおるはその細工造のような容姿と雅楽の腕前から龍笛の君と呼ばれ、再三貴族の子息から贈り物が届いた。またことあるごとに宴に呼び出されるものだから父昭唯の格も高まったのは当然である。
 その中でも一等関心を示していたのは昭唯の後妻の歳離れた弟、かおるにとっては義理の伯父にあたる志摩公房であった。尾上の家は志摩家によって華族としての地位を保てていた縁もあり、公房が強く望めばかおるの身はいかにでも出来うるのは周知のことだったが、公房は贈り物をするばかりであり 、また彼も他の貴公子と同様、個人的な誘いに連れ出せないままに六年が過ぎて、いつしかかおるには密かな想い人がいるとの噂まで立ったのであった。


 公房が差し出した銀平にかおるは薄く微笑んで手を伸ばした。梅の飾りが付いた精巧な調度品は、もう幾つ目とも知れない彼からの贈り物であった。
「つけてみてください」
 かおるは手の中で煌めく銀平を見つめながら困ったように言葉を返した。
「束髪のくずしに簪 は似合いませんわ」
「そんなことを言って君は僕が贈ったものを一度も使ってくれないじゃありません か」
 公房はかおるの手を掴み引き寄せると髪に触れた。後頭部から垂らされた漆黒の絹に唇を寄せて淡く微笑むと再び銀平を指し示す。
「伊島、伊島 」
「はいこちらに」
 隣室から進み出た老女は二人の表情と手に光る銀とで全てを察したように頷くと、かおるの手を引きながら退出した。そうして襖の間から顔を覗かせて、
「少々お時間頂きますけれど」
 とだけ言って答えも待たずに拒むように閉じた。公房は手持ちぶさたに煙草を取り出してくわえたが、燐寸がないので火も点けずに噛んでいる。そして鞄から茶封筒を取り出して帝劇の切符を眺めて溜息など吐くものだから平時の凛として精悍な面持ちも、かおるの髪に口づけたときのような艶やかさも失せて、恋わずらう乙女の熟れた酸漿のような朱がその横顔を染めていた。
「お待たせしまして申し訳ありません」
 襖を開いた向こうから結綿に梅の銀平を挿したかおるが歩み出でた。学生服から薄桃色の着物に替え、小振りの花簪も挿した姿に公房は先頃までの浮ついた姿を隠して何やら小さく一つ二つの言葉をかけた。それから一度咳払いをして先から握りしめた封筒を差し出した。
「かおるさん、次の日曜日はお暇ですか」
 かおるは、まあ、と言ってその手を見つめた。贈り物を口実にやってきては遊山に誘うのが彼の常からの遣り口であったから、 予期していないはずはなかったのだが、小首を傾げて考える素振りをしてみせた。それから伊島の方へ一度目をやって、伏し目がちに答えた。
「大変嬉しいのですけれど、日曜には三条の御大臣様の御邸に行かなくてはなりませんの」
「三条様がですか。僕はそのような話は全く聞いておりませんが」
 両家を取り持った三条家であり、更に言えば家格という点で志摩は尾上よりも上位であったから、尾上を呼んで志摩を呼ばない催しがあるはずもなく公房が不審に思うのも当然であった。とは言え、嘘と断じて問いつめるのは彼の気性ではなく、あやしがりつつもその先の言葉は持たなかった。公房の顔に浮かぶ苦悩の色を見てか、かおるは柔らかく微笑んで言葉を足した。
「御招待くださったのは御息女の志乃子様ですの。初めて御呼ばれするのですが、公房様は御会いになられたことがおありでございますか」
 志乃子の名を聞いて公房は成程と目を細めた。志乃子は三条家の長女で、歳は同じだがかおるにも劣らず名の知れた少女だ。精緻に鋭く透明で、しかし張りつめたどこか脆く危うさのある氷晶のようなかおるに対し、志乃子は可憐で柔らか、あらゆる汚れと不純をどこかに置き忘れたように清らかな佇まいであった。また虚弱で、八つを過ぎた頃から春頃にしか屋敷を出ないことから桜花の君と呼ばれ、社交界の貴公子たちの関心を常に身に浴びているのである。
 病弱な志乃子は時折思いついたように他の家から姫君を呼び寄せては世間の話を聞き、また小遊びなどして夏から冬を過ごすようになったのである。かおると志乃子が並ぶのであれば同席したい気持ちは並々ならないものであったが、公房は努めて冷静を装って答えた。
「いえ、お噂ばかりです。どのような方だったか僕にも教えてくださいね」
 公房の装った平静を微笑みでいなして、かおるは驚いたように口元を隠して囁いた。
「桜花の君のことがお気になるのですね」
 また会いに来る口実を拵えるつもりが彼の意図とは真逆に働いた言葉に公房の頬は図らず紅潮した。特に純情と誠実を友とする公房はその手のからかいにはあまりにも無防備であった。そのため、このからかいはかおるの意図を超えて作用し、公房を羞恥のうちに退室させることとなったのである。それは恥辱ではなく、身の内から出現した蛇のようなものだった。灼熱の舌で舐めまわす蛇は自責と後悔を貪って増長し、彼が紡ぐ弁明の言葉を尽く飲み込んでまた舌を出した。口の外に出ない呻きとも呟きともとれない音を発した後、頭を下げて戸の外へと撤退したのである。
「あまり意地の悪いことをなさいませんように」
 老女はさして気持ちの籠っていない声で淡々と諭して、つくつくと笑った。かおるはそれを山鳥のようだと思った。


 三条大臣の屋敷は目黒にあった。旧い邸宅らしく厳めしい木の門扉が客を威圧していることを大臣は知らない。もっとも、門など物の数に入らないほど三条大臣に風格と威厳が備わっていたため、屋敷を訪れる者にとっては慣らしとしては絶妙な具合でもあった。その門を開くと、皇家も花見に訪れるという見事な桜の木々が居並んでいる。志乃子が桜花の君と呼ばれる縁の一つもまたこの三条家の誇る桜山にあるのだ。池に浮いたボートは宴の折に関白殿を模して分けられ、陛下の御耳にかなった者には褒章を賜ることさえもあった。
 今の時分には池の周りから本邸への小路まで葉桜が光を纏って揺らめいており、風に乗っては初夏の匂いで頬を撫ぜた。首筋に珠となった汗を風が掬い取るのを感じてかおるは目を細める。伊島に無理を言って車を降りて黄金の路を歩んだが、容赦のない陽射しの戯れに辟易しかかっていたのである。
 通された邸内で氷水に喉を潤わせた後に、三条大臣が髭をさすりながら客間に現れた。
「本日は娘の勝手な呼び出しにつき大変申し訳ない。予てから貴方に会いたいとは申していたのだが、こと近頃にその声が大きくなってきていてね」
「私こそ御招きに預かり大変光栄でございます。姫様への御目通りを許していただけましたこと、謹んで感謝申し上げます」
 深々と頭を下げると大臣はかえって狼狽したようで、常の彼らしくもなく慌ててとりなした。そして自分は公用があっていられないが、娘のことをどうぞよろしくと言うと執事に何か言いつけながら部屋を後にした。執事は、伊島を客間に待たせてかおるだけを連れると志乃子の部屋へと案内した。豪奢な庭園に劣らず豪勢な内装は近頃三条の奥方が就寝した独逸製の食器がいたるところに飾られ、絢爛さと古木の幽玄さが僅かな軋みを見せていた。執事は無表情にそれらの調度品を語りながら二階の南部屋に辿り着くと、身振りで示して引返していった。
「失礼します、尾上かおるです」
 小さく戸を叩くと入るようにと声がする。そっと押し開くと、小さな部屋の奥に志乃子が待っていた。かおるに比べて随分と小さく、しかし少女の面影の薄い面持ちは桜花の君の名に相応しく、彼女の周囲は白い部屋の中でどこか色づいて見えた。頭を垂れながら入室して戸を閉めたかおるに対し、桜花の君は華やかに笑ってみせた。
「ずっと御会いしたくおりましたの」
 有難い御言葉、とまた一段頭を下げたかおるに歩み寄ると、手を握りながら志乃子は首を振った。
「おやめになって。ここはもう私室ですのよ。仰々しくなさらずに私を見てくださいな」
 ひばりの歌うような声はかおるの顔を自然と高くした。離れて見ていたときとは違う柔らかい花房のような笑みが心に染みて、かおるは表情を崩した。ややあって、志乃子の瞳からははらはらと涙が落ちた。
「ようやく、ようやく貴方に逢えましたわ」
 志乃子の言葉に同じく涙を流しながら 頷くと、彼女を抱き寄せた。
「ようやく、貴女に逢うことができました」
 それは束の間だけ許された泡沫のような時間であったが、二人はただひっそりと泣き続けた。窓の外では、また薫風が桜の枝を揺らしていた。


TOP


Copyright(c) 2013 all rights reserved. inserted by FC2 system