翳りゆく部屋

Novel


 貫き通せるはずもないことはわかっていた。煌々と誇る星ですらいつか朽ちるのだから、まして蝋燭よりもか細い光がいつまでも照らしていてくれるわけもない。終わりはいつか、思うよりも早く絶対のものとして訪れるのだと誰もが知っているに違いなかった。それでも自ら選んだ道であり、やがて捨てる日が来るのだとしても一時の幸せを約束されるのであれば殉ずるのもよいかもしれないと、薫は死を選んだ。


「ようやく、ようやく貴方に逢えましたわ」
 袖を濡らしながらさめざめと声を零した志乃子に薫は頷いてみせた。八年前に死んだ自分がこうして彼女と向き合っているのだと思うと知らず頬が暖かくなるようで、差した頬紅が溶け落ちるのと同じくして自然と言葉も溢れていた。
「ようやく、貴女に逢うことができました」
 知らず引き寄せていた志乃子の身体はほのかに甘く匂い、艶めいた髪を撫ぜれば微かだった匂いが部屋を満たすように広がった。一層心苦しく、強く抱きしめると涙の嗚咽とも呼吸の苦しみともつかない呻きを漏らしたが、今はただ二人とも先も後も考えられずに一時も無駄にするまいと身を寄せ合うばかりで、どれほどの時間が過ぎたのかさえわからなかった。やがて涙の途切れたほどに顔を合わせる。
「八年ぶりですのね、薫様にお逢いいたしますのは」
 感極まったまま収まらないのか、眼を細めたままに語りかける志乃子の眦を拭いながら薫は愛おしさに胸が塞がるのを感じていた。こうして彼女と再び見えることだけが自分がこの世に残した唯一のことなのだとは随分昔からわかっていたが、それでもこうして向き合って手を差し伸べるとまた忍ぶ気持ちも薄れていきそうで、ただ今はとまた抱き寄せてしまいそうになるのを必死で堪えているのである。志乃子の姿をこうして自分の瞳で以て直接に見るのはもうたしかに八年も 久しいことであり、桜の宴の度に遠くよりひっそりと見守っていた薫からすればそれはかえって もっと長い時間を堪えてきたようにすら感じられた。
「本日はお別れを申し上げに参りました」
 努めて冷静にそう告げると、志乃子の瞳からはまた珠のような滴がはらはらと 零れ始めた。彼女自身もそれは分かっていたには違いないが、それでもまたそうと聞くことは哀しい気持ちを呼び起こしたのだろう、薫の裾を掴む手は強くなり、しかし力の抜けてしまった身体は胸元へとしなだれかかるように崩れ落ちた。
「二言目にはそのようなことを仰るのですね。どうしてそのような意地悪をなさるのかしら」
 恨みがましく呟いた少女の柔らかな耳朶に吐息がかかるほど口を寄せ、髪をかきながら薫は囁いた。
「今言わなければ、貴女を思うあまりに心が揺らいでしまったでしょうから」
 その言葉にどれほどの苦悩をお互いが感じただろうか。恨み言さえ許さないような悲愴の囁き言に志乃子はまた涙に堪えず、薫もまた引き戻ることのできない自らの行く末を想って腕に力を籠める。八年分の積もった心が雪解けのように滲んで二人の頬を濡らした。
 八年前、名こそあれど財に乏しい尾上家に持ち上がった縁談は財も家格もあるが堂上の華族である志摩家との縁談であった。先妻を亡くしてから意気を落とし、家を傾けるばかりであった昭唯を 見かねた三条大臣の計らいであり、あらゆる点で断ることのできない縁談だった。しかしこの縁談には大きな問題が一つあった。志摩家は昭唯に息子がいないと考えていたのである。志摩家が欲しいのは本物の華族の血であり、華族の血を持った跡継ぎであったため、もし尾上に跡を継ぐ息子がいればこの縁談は破談になると言い始めたのだ。もっとも、そうでなければいくら三条の取り計らいとは言っても没落しかかった尾上のもとへ縁談など初めからくるはずもなかったのである。
「あのとき、三条様は養子に引き取ってくださると仰いました」
 縁談を取り組んだ三条大臣は大層心を痛め、出家か遠方へと縁組するかという僅か八つの子には大変惨い二本の道しかなかった中で、いかにしてでも薫の身を守ろうと思い悩んだ末にまったく家格の見合わない子供を引き取ることを昭唯に申し出たのである。ともすれば息子のいない三条家の跡を継ぐことになるかもしれなかったことを考えれば、それは最良のどころか それ以上を望むことのできない計らいであった。もとより薫の清らかなかたちと優れた才覚を惜しく思っていた三条大臣は彼を家に引き入れることは願ってもないことで、全ては上手くまとまるかのように思われた。
 薫は頑としてそれを承諾しなかった。かといって出家や縁組を望むでもなかった。ただ尾上の人間として東京に残るとの一点張りで他は一切承知しようとしなかったのである。そこで女中頭の伊島が提案したのが薫をかおるにするということだった。母に似たたおやかで優しげな顔立ちと細く滑らかな指はそれが可能であることを示していた。伊島は六年はその秘密を隠し通してみせると誓い、今日まで八年の間明るみにでることはなかった。
「隠し通せるはずもないと思ったのです。皆人が道を行く中で一人砂の海に漕ぎ出でたようなこの身を誰かは見つけてくれると信じておりました。そうして明るみに出てしまえばもうなんの隠し立てなく生きられるようになると、かえって人前に進み出でたのです。しかし、伊島の腕がたしかであったのか、振る舞いに非の打ちどころがなかったのか、師範学校に進んでさえ誰にも咎められることはなかったのですよ」
 憔悴の色深く薫は吐息を漏らした。別れを告げる者の務めとして全てを語りきらなければいけないとの思いが記憶を言葉へと紡ぎかえていた。砂の海を渡り終えてしまった今となっては振り返るごとにその軌跡を見咎められなかったことを不思議に思うばかりである。舵を失わずに漕ぎ続けることのなんと心苦しかったことであろうか。
「私は、何度薫様のことを世に告げようと思ったでしょうか。全て終わらせてしまうことでどれほど貴方をお救いできるかと。けれど、その一時の救済がやがて貴方を滅ぼしてしまうことも、私にはわかっていたのです」
「いいのです、これは私が選んだことです。三条家の養子になって、貴女の義兄として生きること辛さに堪えかねた私のわがままだったのです。もちろん、貴女の義兄として寄り添って生きることは可能でしたでしょう。ですが、義兄として貴女を嫁に送り出すことに堪えられたでしょうか、妻をもらい子を育むことを幸せと呼べたでしょうか。いいえ、そのようなことは決してないでしょう。あなたとこうして対等に逢うためにはこうするより他なかったのです」
 待ち続けた時間は一夜を千夜と思うばかりに長く、その間に何度自らの選択を苦しく思ったかさえ知れなかった。しかし薫はただ一度と決めていた。志乃子に再び逢うのは全てをやめる前のただ一度と心に決めて漕ぎ出した旅であった。そうでなければ未練が生まれ、決してと思った道に引き返したくなることはわかっていたからだ。
「それでもやはり一度はと思ってしまうのは私の心の弱さ故ですね」
 最後の一度と決めてさえ未練の生まれる心に深く息を吐きながら薫は微笑んでみせた。逢った日にさえ長くは居まいともかねて決めていたことだった。その全ては己の弱い心を自覚しているためであった。
「もう私は行かなければなりません。これ以上居ては忍ぶることも叶わなくなりそうです。本当は貴女に一目だけと思っていたのにこんなにも離れがたくなってしまいました。だからこそ、お別れをしなければなりません」
 志乃子は涙を溜めながらも頷いて、最後にと微かに袖を引いた。その僅かな力に任せるように薫は頭を傾け、淡く揺れる陽射しの中で影が重なった。囀りにかき消されるほどの微かな音だけが室を支配して、やがて崩れた紅を直したかおるが退出すると静寂の陰に隠れて涙の零れる音だけが取り残されていた。


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