If

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 ぼんやりと窓の外を眺めていた。毎日使っている通学バスからの景色は見飽きてしまっているけれど、他にすることもない。イヤホンから流れる音楽がゆっくりとフェードアウトしていき、シャッフル再生のウォークマンが少し前に流行った恋愛歌のイントロを耳に流し込む。
 瞬間、俺の脳裏に上宮青葉の顔がよぎり、思わずポケットの携帯を強く握り締める。胸が僅かにざわめき、疼く。この曲は彼女からの着信音だ。ほとんどが『着信音1』のままの俺の携帯で唯一ちゃんと設定された曲。いかにも現代の若者、といった風な歌詞が青葉にピッタリだったのだ。
 曲がサビに到達するのと同時に、いや、僅かに遅れて手の中で携帯が振動する。ディスプレイの表示は『新着メール一件 from 上宮青葉』。無意識に息がこぼれる。そうだ。付き合っていた頃も、青葉はこういう偶然をよくやった。
『付き合っていた頃』。そう、過去形だ。そんなに昔じゃないのに、考える時は懐かしく思うし、そんなに最近じゃないのに、まだ『思い出す』という程には消えていない。けれど、あの頃より青葉は確実に一歩、遠くなったと思う。引きずっている? そんなはずはない。けれど、マナーモードの裏側の着信音は「変えるのが面倒くせー」、なんて言い訳してそのままで、こうしてメールを受け取る度に捉えようのない『何か』が胸の内を這い回る。それもまた事実だ。
『先輩は今、何をしていますか?』
 ただその一文だけ。付き合っていた頃と、その前と変わらない。受信ボックスを探せば、同じようなメールが幾つも見つかるだろう。
『特に何もしてない。』
 俺の返事もその一文だけ。送信ボックスに溢れかえるこれも前と同じ。変わったのはメールの頻度くらいじゃないだろうか。
 だから、なのかもしれない。俺達が付き合ってから、そして別れてから変わったことはメールの頻度だけ。会話の内容も大差無く、休日はお互いに部活でバスケばかり。それならば、付き合っている意味があったのだろうか。変わらないなら、付き合っている必要なんてなかったんじゃないだろうか。ただ恋人の関係に甘んじているだけ、そんなのは嫌だった。
『付き合うの、やめませんか』
 それが最後の言葉。


 雨。シトシトと降り続くそれはグラウンドを使用する部活の大敵である。しかし、バスケットボールは例え雨が降ろうと雪が降ろうと、関係なく行える。キュッ、キュッ、とバッシュが音を立て、ドリブルの音が大きくうねって体育館中に響き渡る。
 俺はフリースローラインに立って、ドリブルを2回。胸の前で持ち、軽く膝を落とす。右手にボールを載せ、頭より少し上の位置、手首のスナップと膝のバネを利かせながらうつ。ボールは緩やかな弧を描きながら体育館の宙を舞い、ゴールへと向かっていく。が、そのままリングに掠る事もせず、当然リングを通過したわけでも無く、ネットをほんの少し揺らしただけで床に落ち、跳ねる音が空しく響いた。
 雨のもたらす湿気が、気温以上の暑さになって水分を奪っていく。俺はため息を一つし、額に染み出た汗を拭った。
「エアボール……か…」
「おいおい雪久!お前ちょっと調子悪すぎじゃねぇの!?」
 そんな台詞がふざけた声で平手打ちと一緒に背中にぶつかって来た。半ば反射的に、僅かに顔をしかめる。このバスケ部の中で俺を名字の『逢沢』で呼ばずに名前の『雪久』と呼ぶのはただ一人、岡林春輝だけだ。振り返ってみると、思った通り背の高い少年がニヤニヤと笑っている。俺の幼馴染みで我が校バスケ部のセンターが、そこにいた。
「春輝」
 小さく名前を呼ぶ。
 違うんだよ、春輝。これは調子が悪いとかってわけじゃないんだ。
 そんな風に心の中では叫んでいる。いつもそうだ。言葉にできないことをこいつだけは聞いてくれる。ただ名前を呼ぶだけで、こいつにはいったいどれだけ届くのだろうか。こいつなら、と思う。他の誰に解らなくても、他でもないこいつになら分かるんじゃないだろうか。こいつなら理解してくれるんじゃないだろうか、なんて。だからこうして、ただただ名前を呼んでみる。
「雪久……」
 顔はそのままだが、声のトーンが違う。やはり、伝わった。
「雪久、前から思ってたんだけどさ、お前のそれ、俺にしか伝わんねぇからな?」
「………うん」
「お前ってさ、なにかあった時にかぎって『春輝』って、それだけしか言わないだろう? そこから『調子が悪いんじゃないんだ!上宮青葉から連絡があったから動揺してるんだ』なんて、名前だけで読み取れるのは俺だけだぜ? 菊池が言ってたんだけどさ、お前は、本当に言いたいことがわかんねぇんだって」
 菊池満月、女子バスケ部の一年生で青葉の親友。チラッと女子のコートの方を見る。スリーポイントラインに立つ菊池の手からボールが放たれ、キレイにゴールに吸い込まれる。
 いや、違うな。言ったのは菊池でも、その考えは青葉のものじゃないのか。春輝だってそんなこと分かっているんじゃないのか。
 口に出したわけじゃない。だが、春輝はゆっくりと首を振る。僅かな笑み。決して笑っていない、笑み。それが諦めの意なのか、否定の意なのかは定かでは無いが。いや、解っているのに俺が目を逸らしているだけかもしれない。
「さてと、お話はこの位にして、バスケしようぜ!」
 居心地の悪い空気を払うように春輝が言ったその一言で部活を再開する。俺のシュートは、やはり入らない。


『付き合うの、やめませんか』
 それが、最後の言葉。言ったのは青葉。振られたのは、俺。それなのにメールをしてくるのは青葉の方で、そのメールから伝わって来るのが好意であることは明らかで、それは俺の自惚れでもなんでもなく、真実のはずだ。自分で振ったくせに、まだ好き。矛盾している?
 かく言う俺は引きずってなんかいないはずだし、メールを貰うのは嫌じゃない。それはただの自己満足に近いけれど、むしろ嬉しい。それでもシュートは入らない。矛盾している?
 分からない。けど、はっきりとそれが矛盾だと言えない事が、答えなのかもしれない。最近、そう思うようになった。


 初雪が降った。雪が降ると、俺の名前の由来を思い出す。俺が生まれるまで数年間、ここらでは雪が降らなかったらしく、俺の生まれた日、久し振りに雪が降ったから、雪久。安直なつけ方だが、シンプルでいい。青葉の好きな雪だから、いい。
 今年の初雪は、去年にも増して美しい。雪片の大きく分厚いこの雪は牡丹雪というらしいが、俺には牡丹というより白い桜の花弁が散っているように見える。季節の始まりを告げる雪のはずなのに、まるで別れを告げるように思えて、切なくて、考えるのを止めた。
 俺は白い息を吐きながら雪が積もりつつあるアスファルトを歩く。左手に提げたビニール袋には年賀葉書。迷った挙句、青葉の分も入っている。
 青葉は俺に年賀状を出してくれるだろうか。そんなことにすら不安に感じる自分が情けない。青葉は俺のことが好き、そう確信しているんじゃなかったのか。不安に感じるのは青葉から年賀状が欲しい、といことだろう。強がったって俺はまだ青葉が好きなんじゃないのか。
 ――なんで自分の事に疑問符なんだよ。
 ふと気付いて、俺は自嘲気味に笑った。俺自身が分かってない事を、分かろうとしない事を、他の人が分かるわけがないじゃないか。全く、情けない。
 情けない、とか、不安だとか、苦しいとか、どんな言葉だろうと結局のところ、結論は一つ。こんな簡単な事にも気付かずに、いや、向き合おうともせずに俺は何をしていた? 付き合っている意味とか、その必要とか、くだらない事ばかりぐちぐちと考えて、自分の気持ちを決め付けていただけじゃないか。照れくさかった? そんな事も見逃す馬鹿だった? 結果、離れてしまった。大事な事は一つだ。必要なのは一つの思いだ。それだけあれば十分だったんだ。俺が言うべきは、青葉に伝えたい事は、
「先輩っ!」
 後ろから呼ばれて俺は振り返った。立っていたのは、会いたかったまさにその人。
「青葉……」
 そうだ。青葉は付き合っていた頃から、こういう偶然をよくやった。


 話がある、と言ったのはどっちだっただろう。とにかく二人共大事な話があり、ゆっくり落ち着ける場所が必要だ、ということは一致していた。
「公園、行きましょうっ」
 マフラーを翻して青葉が笑う。
「雪見しませんか?」
 コートとマフラーで完全武装の青葉と違い、俺は部屋着にウィンドブレーカーを羽織っただけで、結構寒かったりする。本音を言わせてもらえばファミレスとか、マクドナルドみたいな店に入りたい。けれど、雪にはしゃぐ青葉を見ていると、寒さなど大した問題にはならないように思えてくる。その笑顔があれば、寒さなんてなんのその。
「妹が寒いのが苦手だから雪見ってあんまりしたことなくて。一度やってみたかったんですよ」
 先を行く青葉が公園の雪をぽふぽふと踏みながら微笑む。今日はよく笑うな、なんて俺もつられて笑い、確信する。俺は青葉が好きだ。
「先輩っ」
 青葉は急に俺を振り返り、目を見つめた。
「私、先輩の事、大好きです」
 不意打ちに言葉に詰まった。真っ直ぐ俺を見つめる青葉から、何故か嫌な予感がする。望んでいたはずの言葉なのに、俺も同じ気持ちなのに、伝えたかった言葉なのに、届く気がしない。
「だから、言います。一番大好きな先輩に」
「あ……」
 最悪の的中に、言葉が、出ない。いくつ言葉を重ねようと、どんな言葉を使おうとも、もう答えは決まっていて、青葉の気持ちは変えられない。彼女の瞳を見ると、何故かそう悟ってしまった。また、勝手に決め付けた。
「先輩の事大好きだから、先輩の事好きになれて幸せだったから、」
 言葉を切って青葉は微笑んだ。それは、俺が今まで見た事がないくらいにきれいな笑顔で、雪の中に佇む彼女を切取ることができたら、さぞや名画になるだろう。こんな時なのに見とれそうになった俺がいる。だけど、その笑顔は青葉の一番寂しそうな顔だから、どんな名画だろうと、この顔をさせた俺は最低だ。青葉が次の言葉へと息を吸う。
 ――でてくる言葉は、解りきっていた。
「さようならです」
 そう告げるやいなや青葉は身を翻す。
「青葉っ……!」
 声が掠れる。駄目だ。こんな小さな声は雪に溶けて青葉には届かない。
 何を言っても意味かない事は分かっている。未練がましくすがるのは格好悪いって事も分かっている。だからじゃない。言葉が出ない理由はそうじゃない。喉元に詰まった何かが全ての言葉を嗚咽に変えてしまうんだ。歩き去る青葉の背中を見つめながら思う。見つめる事しかできずに、問い掛ける。声にもならなかった言葉を雪が溶かして頬に伝う。
 さようならの後の一瞬、お前は泣いてはいなかったか。フっておいてなんでお前が泣くんだよ。大好きだからさようならなんて意味わかんねぇよ。だから青葉、戻って来てくれ。もう一度だけでいい。せめてもう一度、最後に幸せそうな笑顔を見せてくれよ。泣き顔のままでさようならなんて嫌だ。俺も、お前の事、大好きなんだ。
 どんなに思っても声は出ない。雪と共に顔を濡らすだけで、青葉には届かない。ゆっくりと背中が遠のいていく。
 振り返ってくれ、青葉。もう一度。
 その思いは俺の勝手な願いでしかない。だけどそこにもう一つだけ、俺の気持ちを載せれるなら、この言葉を。
「大好きだ、青葉」


 それ以来、青葉とは会えていない。だから、俺の最後に見た青葉は泣き顔のままである。
 菊池から聞いた話では、俺と別れた二時間後には青葉はカナダへ飛ぶ飛行機に乗っていて、それを知っていたのは教師を除くと菊池だけ。
「青葉は最後に逢沢先輩を選んだんですよ」
 エアボールを連発する俺に菊池は少し怒ったように言う。
「他の全てを差し置いて、先輩だけに会いに行ったんです」
 きっと、自分より俺に会いに来た事を怒っているのだろう。僅かな嫉妬と、怒りと、こんなにも菊池は感情が豊かで、正直なんだな。なんて、今思うのは間違っているのだろう。
 菊池の怒りは、嫉妬は、正しいのかもしれない。だけど、覆しようのないさようならを言われるのと、何も言われないのとでは、どちらが残酷なんだろうか。
 俺には分からない。けれど、どちらでもない幸せな未来を俺は選べた筈なんだ。残酷さの二択でなく、幸福な選択をいくつでも掴み取れた筈なのに。例えば、再会を約束した束の間の『さようなら』。
 それはもし、あの公園で青葉を追いかけていたら、もし、なんどでもいくつでも言葉を発していれば、もし、もっと早く俺が気付いていたら、もし、最初に別れる前に青葉にちゃんと好きと言えていたなら、俺の手にあったはずだ。
 そんな数えようの無い『もし』が頭を巡る。だが、それは結局『もし』でしか無く、過ぎ去った選択の切れ端であり、俺が選ばなかったものに他ならない。例え推し量る事は出来ても、決して辿り着けない。触れようと手を伸ばしても、淡雪のように溶ける幻の未来。こんな沢山の『もし』を抱える事を、後悔と呼ぶのだろう。
 この『もし』は後悔でしかないから、後ろにしかないものだから、この『もし』に意味はない。『もし』の向こうに本当の未来はない。わかっている。けれど、考えずにはいられない。こんなにも沢山俺は分岐点を持っていたのなら、もし、こんなにあるどれか一つだけでも『もし』の向こうを選んでいたなら、
 ――スパッ
 何故だろう。憎らしい程キレイに、ボールはネットに吸い込まれた。
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