不可視の孵化

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 もちろんこれはいい意味でだが大学の教授というものは頭の良さと頭のオカシサが比例する職業らしい。その中でも司馬教授はかなりの奇人変人に類するのがいいだろう。そして彼の中々のお気に入りである俺も或いは、ということについては考えたくない。
「君はいつも難しい顔をしているね、秀一君」
 教室に入ってきた彼はいつもながら上機嫌で、俺の眉間に小じわを作る。八人いるはずのゼミ生が七人欠席しているにも関わらずご機嫌な教授というのはいかがなものか。確かに彼が十五分の遅刻というのかなりの好成績であるから元々気分よく来たのは間違いないのだが。ひょっとすると牛でも捕まえたのだろうか。
「惜しい! 悪くない推察だよ、秀一君。しかし残念ながら私が今日持ってきたのはこの卵さ」
 司馬教授は俺の眼前に乳白色の物体を差し出した。頭の中身以外はおよそ平均的な彼の手にすっかり収まる程度のその卵は、色といい形といいどう考えても鶏卵だった。ただの鶏卵を出して彼が上機嫌なはずもなく、その中身はガルダかヴリトラか。哲学的な問いであったならば御の字だ。こういうことを平気で考えさせるからこの人は恐ろしい。
「おやおや、君はこれを鶏卵だと言うのかい? しかしその自らの判断を一度おいてまで指導教授を疑うとは呆れた学生だな」
 大仰な仕草で卵を机に置いて教授は俺に背を向けた。七人欠席の時点で己の人望のなさを痛感するべきとも思うが、それを気にするほどのまともな感性を期待することは空しいととうに思い知っている。そしてもう一つ知っている限りでは決まって彼は何かを言わんとするときに一度こちらに背を向ける。これは合図なのだろう、彼をただの奇人から曲がりなりにも大学教授という位置へ復帰させるための。
「君の言いたいことはわかる。色、形、大きさそれらを君の記憶と照合するにこれは鶏卵に相違ない、という判断だろう。悪くない推察だけどね、決定的な証拠に欠けているよ。つまり君は、この卵の中にひよこを見たのかということだ」
 そう言って彼は胸ポケットからフォークを取り出して卵をコツコツと叩いた。俺はもちろん中身を見る由もないがだからと言って証拠不十分というわけでもあるまい。目の前の卵は司馬教授の言うようにまさに鶏卵といった姿かたちなのだからそう判断するのが当然だろう。いくら俺だって本気でヴリトラを連れてくるとは思っちゃいない。そもそも、つまり俺は彼を疑って正解だったということじゃないのか。何故、一度罵倒されたんだ?
「いいかい、秀一君。見える、ということは人間社会においてとても重要なコトなのだよ。君はこの卵を外見の見える情報から鶏卵と判断した、ふむ、それは概ね正しい。君にはこれが鶏卵に見えるのだからね。しかしだよ、これが我々の全く知らないナニカ――例えばナーガの卵だったとして君はそれを否定する材料を持っているかな? 全く見たことのないそれではない、と自信を持って言えるのかな?」
 見える見えないを持ち出して論争するのは卑怯だ。ネス湖をひっくり返すまではネッシーの非存在を認めないと言っているようなものであるし、或いは未確認飛行物体も幽霊の類も『私には見えるんです』と言ってしまえばお仕舞だということでもある。言ったもん勝ち、見えたもん勝ちならばおよそ否定派の居場所はなくなってしまうじゃないか。そもそも見たことがないのならば彼にもこれをナーガの卵だと言い切る論拠もないことになりはしないか。
「その通りだよ、秀一君。私は君の人の嫌がることを的確に突く才能を積極的に伸ばしたいと思っている。当然、私にはこれをナーガの卵であると言い切ることはできない。しかし、どんなにありえないと思われることでも肯定も否定もできなければ丁度五分のままなのさ。シュレディンガーの猫だって箱を開けなければいつまでも二つの状態が重なったままであるようにね。これは、『ありえない』を主張する側からすれば大勝利と言ってもよい戦績だよ。なにせいくらでも好き放題主張できるからね」
 彼はゆったりと笑って見せた。その傲慢な笑顔は俺を挑発している。これが嫌で誰もゼミに来なくなったことを彼は知っているのだろうか。その理由だって、彼が知らないうち、認識しないうちは好き放題に想像する余地がある。全員が途中で暗黒世界に囚われてしまったのだ、とか、彼らが来ないうちはその理由だって今知る術はなくなんとでも言い張ることができるのだ。鶏卵が孵化しない限りその中身を知ることはない。
「私はね、なにもいたずらに常識を否定したいわけではないんだよ。ただ恐ろしいだけなのさ。ネス湖にかけたソナーなんて仕組みのわからないもので本当にネッシーがいないと言い切ってもよいものか、この卵からひよこが生まれると信じてよいものかとね。私はいつ生まれるともわからない真実を、延々と待ち続けなければならないのだよ。ならば少しの間、気の休まる妄言を吐くくらいは許されてしかるべきじゃないのかな」
 その妄言を人に押し付けるのは遠慮願いたいものだ。それにネッシーの有無が知りたければ自分で潜ってみるのが早いだろう。見えないのならば見ればいいのだ。蛙の卵を見るがいい、中でおたまじゃくしの成長するさまが見て取れる。臆病者を自称するのならば中身の見えないものを持たないのが一番だ。
「これは一本とられたかな。そう、無論、見えるに越したことはないのだよ。だがね、卵からすれば中身がわかると不都合なこともあるのさ。透明な薄い膜にはおよそ防御の力はないからすぐに壊されてしまうしね。しかしだよ、この硬い殻は中身をわからなくすることで自衛の役割を果たしているのだよ。もしも怪物の卵だったとして、中身が怪物とわかってしまえば民衆は必ず叩き壊しにくるから、見せてはいけないし中身を察されようとも容易に壊されてはいけないのさ。なにせ、ここから無垢なひよこが生まれるかもしれない以上は善良な市民はこれを破壊するわけにはいかないからね。しかし、恐怖からは逃れられないのだよ。生まれてくる怪物に牙を剥かれるぞ、とね」
 彼は精一杯怯えた民衆の顔をやって見せたが、そこに狂気の陰を見ないわけにはいかなかった。彼は絶えずフォークで卵を突き転がし、回して弄ぶ。もしこの卵が無精卵だったならば、永遠に司馬教授は中身を恐れ、吹かし、転がしているのだろうか。彼は待つことも厭い、生まれてくる怪物にも恐怖している。ならば或いは卵というものは決して孵らない雄鶏の卵がよいのかもしれない。いざ孵化するそのときこそ、恐怖の王が目覚めるときでもあるのだから。いつまでも希望に満ちた想像に浸るほうがよほど幸せだ。
「無論、この卵が孵らなければとも思う。しかしね、秀一君。私が一番怖いのはこの卵がその雄鶏の卵であることなのだよ。何故だかわかるかい?」
 答えのわからないことが怖いか、悠久の恐怖に想像の種が尽きるが怖いか、俺の知る司馬教授からはどちらも遠いことだった。むしろ彼は答えのないことを積極的に求める節があるようだし、答えよりもそれを考えることに快楽を見出す人種だ。むしろ答えがでることを恐れているようでさえある。
「怖いのは、油断だよ。本当にこれが雄鶏の卵だったとして、私はいつかこの卵をそうと決めてしまうかもしれない。そして生まれもしない卵からちょっと目を離す。するとどうだろう、蛇がやってきてこの卵を孵すのさ。そして余所を向いていた私は生まれてきたバジリスクの毒牙で死んでしまう、私にはそんな未来が見えるのだよ。だからね」
 そう言って司馬教授はフォークの上に卵を投げるとごく自然な動きでひょいと投げた。宙を舞った白い球体は俺のマフラーに着地し事なきを得たが、危うく卵黄まみれにされるところだったマフラーを思うと俺は抗議しなければならないだろう。
「あぁ、すまない。今日のプリントを忘れてしまったようだ。ちょっと取って来るからそれをなんとかしておいておくれ」
 俺が卵を手に取った途端に司馬教授はそそくさと教室を出て行った。この調子では抗議も講義もあったものではない。仕方なく俺は立ち上がり、卵を如何にすべきか思案し始めた、そのとき、
――どくん
 右手の中の更に中、何かが蠢いた気がした。その感触が消えるより前に、小さな音が部屋に響いた。


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