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Novel
 小笠原美奈は戸惑っていた。ここは一体どこだろう。美奈の周囲には青々とした草原が広がっているが、彼女はつい今し方青信号の横断歩道を渡ったところだった。勿論、草原のど真ん中に青信号があるわけもなく、彼女が渡ったのは歩道橋の見えるコンクリートの街中にある青信号だ。美奈は襟元の伊達眼鏡をかけてみる。その薄っぺらなレンズを通しても景色は変わらず、(変わったら変わったで彼女は大いに困惑するのだが)美奈はため息をついた。
 ―不思議の国のアリス―
 美奈の頭に言葉が浮かぶ。
「でも私は兎を追いかけてないわ」
 自分の考えを声に出して否定してみる。声に出せばなにか変わるかもしれない。
「兎ならここにいるよ」
 草の合間から白い兎が顔を出した。否、それは兎のぬいぐるみだった。口や爪は明らかに糸で出来ているし、目は黒いビーズだ。そしてそれはどうも、美奈の部屋にあるぬいぐるみと全く同じなようだった。美奈は本当に何かが変わったことに驚きながらも兎に話かけた。
「こんにちは、兎さん。少し尋ねたいのだけど、ここは一体どこなのかしら?」
「ミナちゃんがそれを知らないのなら、」
 兎は答える。
「それはミナちゃんが知る必要の無いことなんだろうね」
 美奈は顔をしかめた。なんて面倒な兎なのだろう。やっぱり私の兎じゃないわ、と心の中で呟く。
「あなたは私が何故ここにいるか疑問には思わないの?」
「それを僕は知らないから、僕が知る必要の無いことなんだろうね」
 美奈は心底うんざりした。謎かけに付き合っている暇はない。
「私は帰りたいの」
「ミナちゃんがそう思うのなら、」
 兎は大まじめな顔をして、(ぬいぐるみも大まじめな顔をするのだと美奈は初めて知った)
「そうするべきなんだろうね」
 美奈はふと、この大まじめな顔をした兎に伊達眼鏡をかけてやりたくなった。不思議とそれは、ぴったり似合うように思われ、我慢せずに美奈は眼鏡を兎にかけてやった。そしてそれは、思った通りによく似合っていた。
「それ、あげるわ」
 と、美奈は言った。
 兎は困惑したように、(ぬいぐるみは困った顔もするのだと美奈は初めて知った)両の前足で頭をかき、
「僕はこれを貰って嬉しいから、ミナちゃんを手伝おうと思うよ」
 と言って美奈の手をとった。

 草原を歩きながら兎は言った。
「いいかい、これから出会うどんなものにも、ミナちゃんは声を出してはいけないよ」
「どうして?それは私が知ってる人なの?」
「ミナちゃんが知っているかもしれないし、あるいは知らないかもしれないね」
 美奈は彼の思わせ振りな言い方は気にしないことにした。
「どうして声を出してはいけないの?それとも、それも知る必要の無いことかしら?」
 兎はうんざりしたように、(ぬいぐるみって本当は色々な表情ができるのね、と美奈は感心した)
「気付かれてしまうからね」
「どうして気付かれてはいけないの?」
 美奈は自分がさっきからどうしてを連発していることに気付いた。でもしょうがないわ、この兎が不親切なんだもの。
「ここにいるもののみんながみんな、ミナちゃんに好意を持ってるとは限らないからね」
「私は知らない人の恨みを買ったことはないわ。少なくとも、嫌われたりはしてないはずよ。」
「いつ誰の恨みを買ったか分かるのなら、」
 兎は少し悲しそうに言った。
「誰も恨みを買ったままにはしないだろうね」

 まず最初に出会ったのは、左腕のないテディベアだった。
「やあ!」
 兎は声をかけて手を振る。
「やあ!」
 左腕のないテディベアも手を振る。美奈は兎に言われた通りに黙っていた。
 脚がないパンダ、背びれの折れたイルカ、耳のとれたミッキー、の、ぬいぐるみ達とすれ違う。その度に兎はやあ!、と声をかけて手を振った。
「やあ!」
 と、横から声かけられる。片目のないリスのぬいぐるみ。
「あっ……!」
 美奈は思わず声をあげた。そのリスのぬいぐるみは、昔彼女が持っていたのと同じだった。幼い美奈が片目をちぎり、捨てられてしまったぬいぐるみ。
「ミナちゃんだ」
 リスのぬいぐるみが美奈を見上げて言う。
「ミナちゃんだ」「ミナちゃんだ」「ミナちゃんだ」
 振り向くとすれ違ったぬいぐるみ達が、遠くにいたぬいぐるみ達が、美奈を見つめていた。そのどれもが、およそ好意とは言い難い視線だった。よく見ると、見覚えのあるぬいぐるみもいる。
「みんな私が壊したのね!」
 美奈は足元の兎に叫んだ。
「今までのミナちゃんの行動が引き起こした結果なら、」
 兎は美奈を見ずに言った。
「それをしっかり受け止めるべきだろうね」
 壊れたぬいぐるみ達はじわじわと迫っている。
「走るといい」
 兎が草原の向こうを指差した。
「ミナちゃんが一生懸命に走ったら、その結果はちゃんとかえって来るだろうね」
 美奈は兎に早口でお礼を言うと駆け出した。速く、速く、と自分を急かす。時折振り返ってみても、ぬいぐるみ達との距離は一向に広がる気配はない。
「あぁ、もう!」
 思わず悪態をついた。信号が赤い。突然現れた横断歩道に車は一台も通っていないのに、赤信号を渡ってはいけないという小学生じみた考えが美奈の足を止める。
「早く、早く」
 声に出せばなにか変わるかもしれない。ぬいぐるみ達はもうすぐそこまで来ている。信号が変わる。美奈は変わったばかりの青信号を駆け渡った。

 美奈は歩道橋を背に立っていた。コンクリートの街中。排気ガスの匂い。首を振って歩きだす。今のはなんだったのだろう。
 重い足を引きずって家に辿り着く。ベッドに倒れ込む。枕元でやけにまじめな顔をした兎のぬいぐるみが、少しずれた伊達眼鏡をかけて座っている。
「あなたが私を助けてくれたから、」
 美奈はうっすら微笑んだ。
「私はあなたに感謝してるわ」
 そう言うと美奈は思い切り兎を抱き締めた。


 歩道橋/伊達眼鏡/ウサギのぬいぐるみ
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