雪煙上る

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 一目見て老爺はおや、と眉を上げた。覚えがあったのだろう。桧堂秋吉はそれに答えるように軽く頭を下げた。
「お電話頂ければ駅までお迎えにあがりましたのに」
 接客用というだけでなく、本意からの人の良い笑顔を浮かべる彼につられて秋吉も笑った。
「いえ、今年は自分で運転してきましたので」
 昨年にこの温泉旅館を訪れたときは積雪が激しくバスが動いていなかったため、駅から二時間かけて歩いてきたのだ。しかしバスも止まるような雪道を歩いたために到着したときには秋吉も恋人の舞香も真っ青に震えていたのである。今年も雪はかなり多かったが、交通が停止するほどではなかった。
「お食事はいつ頃にいたしましょう」
「先に風呂にしたいので、一時間後にお願いします」
 案内された客室に荷物を置きながら答える。実際は雪の山道で神経をすり減らしていたために少し眠りたかったが、食事の最終時間を考えるとそれは大きな危険をはらんでいた。
 案内の老爺が退室したところで押入から浴衣を取り出して秋吉は恋人の名を呼ぶ。
「さあ行くよ、舞香」
 貸し切りの家族風呂を備えている旅館ではあったが、まずは大浴場へと向かう。家族風呂に入るのはもっとゆっくり時間がとれるときがよかったからだ。それでも最初に浴場へ行きたかったのは疲れと寒さのためであった。
 露天に浸かり空を眺めるとさすが山奥というべきか、都会とは比較にならない量の星が浮かんでいた。金とも銀とも言えない光そのものの瞬きは星空にしか生めない色彩であり、星座などほとんど知らない秋吉であっても並の絵画よりも遙かに芸術的な景観に覆われた心地になる。その天窓から注がれた輝きは露天の縁石に積もる湯気によって露へと変わりかけた雪に反射して、秋吉の周囲を跳ね回っていた。

 部屋に戻るとすぐに夕飯の準備が始まった。食事出しは先ほどの老爺ではなく、女中が行った。この女中も、昨年訪れたときに自分たちの世話をしてくれた人だったことを秋吉は記憶していた。背丈の低いその女は体格に相応しくない幅広の盆に載った食事を慣れた手つきで並べていく。
 淀みのない動きは彼女がいかに練達しているかを表していたが、その年輪から老いを感じないわけにはいかなかった。彼女はこの動きを身につけるまでに幾年もの歳月を重ねたにちがいない。艶を失い枯れた手は古木のように硬く節だっているし、滑らかな手つきの端々には動作不良を起こしたような軋みが生じる。熟練するまでに費やした歳月が醜い老いとなって彼女を包んでいるようだった。
 秋吉は見るに耐えかねて視線を逸らした。ありありと見て取れる老いは死すらも想起させる。この女中はもう少し背丈もあったにちがいない。もっとふくよかな体つきでもあっただろう。本当は見た目よりずっと若いかもしれない。だが失われてしまった彼女の肉体はもう帰らない。この先は朽ちていくばかりだ。そう思うと彼には女中がより一層醜悪なものに見えてしまうのであった。
「はい、全部終わりましたよ」
 卓の上はすっかり皿に埋め尽くされていた。昨年もそうであったがここは食事の量が多い。舞香と共に驚いたものだ。
「もうお見えにならないかと思っておりました」
 彼女は秋吉に背を向けてそう言った。秋吉は答える代わりに視線だけ投げた。言わんとすることは確かに理解できた。彼自身、来ることを決意したのは近い日のことだ。しかしそれを女中から言われるとは思わず、当惑していたのも確かだった。
「昨年あれだけの思いをなさったのだから、きっとお見えになることはないだろう、別人だろうと話していたのです」
 彼女の背中は震えていた。その震えの陰にあるものは正確に伺い知ることができなかったが、端的に秋吉は言葉を投げた。
「舞香のためです」
 当然、彼女にはそれがわかっていたのだろう。女中は答えずにごゆっくり、とだけ言い残して部屋を去った。襖が閉まるのを見届けてから秋吉はゆっくりと箸を手にとった。
「さぁ、舞香、いただこう」
 海鮮の夕飯は昨年と変わらず彼の舌を喜ばせた。もちろんその量故にこれも同様に苦しい思いをしたが、これほど美味しければ文句はない。なんとか食べ終えてフロントに電話をすると、また先ほどの女中が下げにきた。
「ごちそうさまでした」
 そう告げると女中は妙に嬉しそうな顔をして、また例の円熟した動きで皿を片づけ始める。藍色の着物はきつく締められているのか、どんなに体を捩っても少しも乱れない。舞香の浴衣は少し歩いただけですぐに袷が緩んでしまうから心配で仕方ないというのに。
「家族風呂は空いていますかね」
「どうでしょう、行ってみてください」
 女中は手を止めずにそう答えると、卓の上を拭き始めた。少し乱暴な物言いに秋吉は眉を寄せ、しかし彼女が知っているわけもないかと思い直す。それにしても本当に淀みのない、老いた動きだと、そのくすんだ肌を見つめる。舞香と比べても仕方ないとは思いつつも、彼女の白く柔らかな肌に比べると人間と呼ぶことすら躊躇われるようであった。歳の差を考えれば当然のことであるが、それ以前に秋吉が求めているのは肉なのである。舞香の柔肌にあった温もりや弾力は全てその肉の成すものだ。この女中にはその肉が決定的に足りないのである。
 秋吉は女の美しさは肌と肉の美だと考えていた。筋肉か脂肪かしかないような男では決して持ち得ない、女のみが持つ弾性に満ちた柔らかな甘い肉を彼は愛でた。その柔らに歯を突き立てて朱が差した部分を撫ぜるのを好んだ。触れるだけで心をとろけさせるような柔らかく甘い肌を包むとき、どれほどの至福に見舞われているだろうか。骨と筋肉を覆う、それでいて最も弱い部分は時に食いちぎりたいほどの衝動に駆られるのである。そんな狂暴な衝動もまた彼の快楽を呼び、一層肉体を求めるのであった。
 女中は黙り込んだまま急須と湯呑みを卓に並べると、今度はそのまま退室した。秋吉はむしろそのほうがありがたかった。女中が言いたいことはわかるが、昨年は昨年であり、触れる必要のないことだと思っていたからだ。並べられた茶具を一瞥して立ち上がり、家族風呂へと向かう。幸いにも使用者はいなかった。

 軽く体を流すとすぐに露天に向かった。大浴場と同様に雪に囲まれた湯船は幾分熱く、肌を浅く刺す。数秒もすれば薄れ去るその痛みに顔をしかめながら秋吉が湯に身をゆだねると、雪を蒸して立ち上る湯気によって折角の露天であるというのに視野はほぼ煙色になった。
「一年ぶりだね」
 姿の見えない舞香にそう呼びかけるが答えはない。それでも構わずに秋吉は話し続けた。
「女中さんが言ってたけどさ、本当はもう来ないと思ってたよ。でもなんでだろうね、春には毎年ここに来るって舞香と約束してたからかなあ。まさか免許取ってドライブしてくるとは思わなかったけど」
 立ちこめた湯気が笑うように微かに揺れる。秋吉は小さく笑って湯を掬って肩にかけた。すこし粘りのある湯質はまるで変わらず、時間を超えて一年前に帰ってきたかのような錯覚を覚えさせた。秋吉はもう一度小さく笑うと、視線を空に移す。定かには記憶に残っていない光の群は彼を現在へと引き戻す。
「舞香も免許取るって言ってたのに……一人で運転してくると結構疲れるんだぜ?」
 冗談めかしたつもりであったが、実際に秋吉は疲労していた。数時間の運転は心身ともに彼の大きな負担となり、今にも湯の底へと埋没してしまいそうな眠気を感じていた。呼ばれているのだろうかと秋吉は半目になりながら首を回した。煙の彼方から舞香に呼ばれているような、すぐ耳元で叫ばれているような、とにかくそこに彼女がいるのだという感覚が彼の意識をかろうじで支えていた。やがて煙の合間にほの白い肌が浮かび、秋吉の意識は覚醒する。
 口元まで迫っていた水面から逃れるように立ち上がると、白煙が大きく揺らいだ。夜風の冷気が湯に入ったときよりも太く皮膚に突き刺さる。心臓が内側から胸を貫かんばかりに激しく叩き、秋吉は軽い目眩を覚えた。
「舞香」
 喘ぐように声を絞り出すと、湯気がまた小さく揺れた。

 部屋に戻ると秋吉は熱燗を注文した。昨年もこの宿の地酒に二人で舌鼓を打ったのを思い出したからである。
「えぇ、はい、お猪口は二つでお願いします」
 受話器を置いて机上を簡単に片づける。飲まなかった茶は急須ごと温まっていた。
「失礼いたします」
 酒を持ってきたのはやはり同じ女中であった。女中はすみませんね、すみませんねと呟きながら布巾で卓を撫で回し、秋吉には見えない埃を執拗に拭う。その手を見ていた秋吉だったが、ふと視線を彼女の着物へと移した。他意があったわけではなく、指先から腕、肩、胸元へと視線が歩いていったのだ。
 女中の胸元は食事時とは違い微かに緩んでいた。それは本当に僅かな緩みで、両の鎖骨の端が見える程度の隙間だったが、秋吉は刹那の間それを注視した。先ほどまで隠されていた彼女の素肌は見えていた箇所よりは幾分若い柔らかさを呈していたが、決して彼の情欲に触れるはずもなく、肉感の薄い皮膚の向こうには骨の気配がありありと感じられた。媚態と呼ぶには程遠く、しかしその隙間はどこかしら意図的に開けられたかのように的確に秋吉の視線を呼び寄せていた。
 それ故に、秋吉の視線はほんの一瞬のこととなるはずだった。彼が女中の肌への興味を失いかけたそのとき、彼女は徳利を秋吉の前へ差し出すべく卓の上に身を乗り出した。小さな隙間も体勢が変われば違う角度の穴になるもので、秋吉の目は彼女の首もとから乳房の中程までを捉えることとなった。大きいが豊かと呼ぶには苦しく、手や腕に比べれば首より下はまだ普通かと言った程度の掠れた肌が彼の脳を焼いた。
「それでは失礼いたします。お電話いただければ下げに伺いますので」
「はい、ありがとうございます」
 秋吉は努めて冷静に答えた。自身の脳に渦巻く不埒な映像を誰にも悟られまいと微笑みさえ浮かべた。女中が退出した後に秋吉は一息に酒を呷った。アルコールの熱い刺激で脳を塗り直そうと思ったからだ。しかし、酔いが回りかかって浮いた頭はかえって先の乳房を鮮明にした。衰えた、というよりも養分と手入れが枯渇したような膨らみは、薄い舞香の胸と比べても明らかに張りと艶を失っていた。性交渉など久しくしていないのだろう。
 首を振って続けざまに杯を空けると、度の合わない眼鏡をかけたように視界が歪み始めた。こんな勢いで飲んだら舞香が心配するかもしれないとは思いつつも、腕は止まらない。およそ彼の好むものとはかけ離れていたはずの女中の姿が頭に焼き付いて離れずにいた。拒むように酒を呷るほどに艶を増すことに怯えてさえいた。滑らかな肌を撫ぜる感覚を取り戻そうと思考を巡らせると、去年も熱燗を飲み過ぎて倒れたのだろうと、揺れる脳の隅で声がして、ようやく秋吉は動きを止めた。止めるとともに劣情が脳を支配し始め、脳内で舞香の肌と女中の肌とが交互に再現し血流を下半身に落としていく。焦れた秋吉は徳利を掴むとそのまま液体を喉に流し込んだ。途端、脳が沸点を突き抜けてそのまま後ろに倒れてしまった。
 揺れていた。風が揺らす水面のように、頭を垂れる柳のように。体にまとわりつく粘液を引きずって秋吉は揺れていた。まどろみのように意識は半覚醒で、体との繋がりは切れている。やがて痺れるような感覚が足下から這い上がり、揺らぐ体を縛り始める。声をあげた気がして、声が聞こえた気がして、秋吉はまた深淵へと沈んだ。
 鈍い痛みと薄寒さとどちらのせいか、不愉快な速度で浮上して秋吉は身を起こす。頭蓋の中とも奥ともしれない曖昧なところから激しく叩かれる感覚は酔いつぶれた後のそれに違いなく、水を求めて目を開くとすっかり宵に潰された部屋の中で頼みにできる明かりもなくて、立ち上がった拍子に炬燵板にしたたかに足を打ちつけて倒れ込んでしまった。呻き声が静かに溶けていくところをみるにどうやら彼は部屋に一人きりのようだった。
 程なくして慣れた目を凝らして冷蔵庫まで這い寄って、中に入っていた飲み物をろくな確認もせずに口に含んだ。途端、水泡たちが一斉に口内と喉を突き刺して激しく咳き込んだ。麦酒でないのは幸いだが、炭酸飲料とは恨めしい。落ち着いてもう一度飲み直し、一呼吸置くといくらか気分が良くなって壁に背を預けた。仄かに射した月光に当ててみれば手中の缶は紅く濡れ、お前が悪いと言わんばかりに泰然としているように見えた。
 落ち着いた脳裏に浮かぶのはまたも女中の肌であった。どこか釈然としない。まるで女の価値のない肌ばかりが自身を支配していくことへの不快感と、その生々しい映像に受ける興奮の色合いが酔いを呼び戻すように頭を揺らした。しかし実体のある媚態に感情を刺激されることは不思議と不愉快でなく、妙な高揚感すらもあった。滲んでいた汗すらも高揚の名残であるかのように身に馴染み、不気味な色香となって落ち着いていた。
 微かな記憶と手探りで見つけだした携帯電話の画面の眩しさに目を細め、午前三時を少し回ったところであることを確認する。記憶にある時間。ちょうど一年前に見たのと、ほぼ同じ時間。


 鈍く痛む頭に手を当てながら、布団の上にうつ伏せた状態から半身を起こして闇を見つめていた。霞んでいるのか、暗いだけなのかすら判然としない視界を晴らす術を知らないわけではなかったが、それもままならない程に思考に雑音が混じり背骨のどこかで嘔吐感が身震いをする。確認した表示から酒を飲んで眠り込み随分な時間が経過してしまったことだけを理解したが、立ち上がった途端に世界が反転して気づけば布団の上に仰向けになっていた。
「舞香ぁ……」
 水を求めて名を呼んでも返事がない。寝息も聞こえないところをみると部屋にはいないようだ。再び身体を起こして後ろに手をつくと、やけに酒臭い吐息が鼻に返ってくる。それほど飲み過ぎた記憶はない、というよりはどれくらい飲んだかの記憶すら定かではないのはよっぽど飲み過ぎたということなのだろう。前後も左右も不覚な状態で動くのは危険だと思いつつも水を取りに行かなければならない。慎重にゆっくりと上体を伸ばし、後ろについていた手を横へとずらす。そのまま起きあがるべく力を入れ直そうとしたとき、襖の開く音がした。
「舞香……ちょうどよかった、ごめん、水をとってくれない?」
 安堵感からか少し気も晴れて一息にそう言うと仰向けにまた転がった。そう何度も転んでは身が保たないところへの帰還のなんとありがたいことだろう。足音を忍ばせて人が入って来る気配がして、すぐ近くの畳を影が通る。一人で寝つぶれてしまったからだろうか、返事の一つも返さずにやけにいそいそと通る彼女に自分が悪いながら寂しさを覚えずにはいられない。やがて蛇口を捻る音がして、枕元にコップが置かれた。置いて、そのまま立ち去ろうとする様子を察知して思わず袖を掴む。
「どこに行くの、風呂?」
 困ったように首を振る姿に焦れ、一先ず布団に引き込んで肩を抱いた。小さく震えながら漏らした吐息は普段の彼女らしくもなく熱と湿り気を帯びていて、酔いの残る脳をぐらつかせる。身を捩りながらもさほど感じない抵抗を抑え込んで組み伏せると、諦めたのか形だけの抗いも見せなくなった。霞んだ視界のせいで表情は読めないが少し乱れた息遣いと、手首を握る手のひらに滲んだ汗とが彼女の気持ちを示しているようだった。


 襖と床とが擦れる音がして、秋吉は目をやった。薄暗い部屋からは影しか見えないが、小柄な女性が身を低く控えているのがわかった。
「舞香……?」
 彼がそう問いかけたのは反射に近く、答えなど聞かなくても明白であった。伺うように部屋の中程まで歩み来た彼女の背中にもたれかかるようにして抱きすくめると、微かに悲鳴のようなものを漏らして布団へと倒れ込んだ。秋吉はその肩を知っていた。その肩の薄さや布の下にある肌の様子までありありと思い起こすことができた。押しつぶすようにした腕の中で肉体が身じろぎをする。彼に組み敷かれたまま声をあげることも逃げ出すことも忘れてしまった彼女はただ焦れたように身を揺する。やや慣れてきた目の下で闇に隠れるような身体は人のようにも見えず、急速に冷めていく思考の隅から同じ映像が蘇って秋吉は一度瞳を閉じた。
 秋吉にとってこの旅行の目的はまさに今達成されようとしていた。残るは彼がどこまで知っているかという点であり、また彼女がそれを知っていたかということだった。前者はあともう幾らもしないうちに明らかになるであろうし、後者は永遠にわかりようのないことだ。思考をそこで一度断ち、淡々と肌に手を当てた。温もりを感じるには冷えすぎてしまった手のひらにじっとりと汗がしみ込んでいく。宵闇と戯れるような錯覚を覚えそうな程に部屋に溶け込んだ身体を撫ぜて、再度彼は瞳を閉じた。
(あぁ、知っている)
 一つ一つ確かめるように触れる度、記憶と重なり合っていく。薄く粗い心地も、骨の硬さも、濡れた吐息もなにもかもが彼の知っているそれだった。記憶の中にあった夢が現実へと回帰して次々と事実に復元されていくのを止められず、涙を堪えながら作業を続けていた。全てが合致したことを理解して、ようやく彼は頬が濡れることを許した。

 家族風呂には雪の他には誰もいなかった。汗と、涙と、身体に残った匂いとを全て流すように熱いシャワーを浴びながら秋吉は舞香の姿を思い出していた。赤みが差したどころではない、真っ赤に染まった身体は全て血管が破裂してしまったのではないかと疑ったほどだった。あるいは濡れてさえいなければ燃えていたと呼んで差し支えのないほどに。脳裏にちらつく細身の彼女はぐったりと目を閉じて、もう動くことはないのだと全身で語りかけるようで、熱を帯びたその肌を撫でても瞼一つ動かさなかった。
 その滑らかで熱い皮膚に触れたときにどれほどの興奮を覚えたか、秋吉は今でもはっきりと思い出すことができた。水滴を乗せた細やかな肌は指によく馴染み、血管をなぞっては吸われているかのごとく吸い付いた。いけないとは知りつつも離れることができずにむせび泣きながら彼はただただ舞香の身体を撫でていたのだった。
「やっぱり君じゃなかったんだね、舞香」
 指先に感覚を呼びながらため息と共に言葉を落とす。この一年の間、彼が考え続けてきたことの答えはそれで全てだった。今日触れた肌を彼が知っていたということはつまり、一年前の真夜中の交じらいは舞香ではなかったということなのだ。
「だって、君はここにしかいないはずなんだもの」
 泣いていた彼の眼前から、舞香の身体は運ばれていった。湯に顔が浸かって溺死していた彼女は、おそらく脱水症状か湯あたりで気を失ったのだろうと判断された。部屋に残された書置きから舞香が家族風呂にいることを知った秋吉が発見したときは、まだ死亡してからいくらも経っていなかったはずで、少しのところで恋人を救えなかった彼をしかし人々は責めることもなく慰め続けた。
 秋吉は警察に誰かを抱いた話はしなかった。それが舞香ではないかもしれないことをどこかでわかっていたからだ。そうであるならば彼がもし起きてすぐに書置きに気がついていたなら、舞香は死なずに済んでいたに違いない。それを違う誰かを抱いていたために発見が遅くなったとあってはいったいどれほどの謗りを受けるかと怖かったのである。
「本当はなにもかも怖かっただけなんだ。事実を知るのが怖くて、来たくないと思ってた。知らないままでいるのが怖くて来ずにはいられなかった。人には君のためだなんて言って、自分が楽になりたいだけだったんだよ、ごめんな」
 書置きに気づかなかったことでも、真実を話さなかったことでもなくその恐怖を優先したことを彼は詫びた。最後を過ぎてさえ彼女を心底思いやることができない自分を恥じながら。しかし彼がこの宿へ来た理由は真実への恐怖ばかりではなかった。もしも自分が誰かを抱いて舞香を死なせたとしたら、抱かれた人間は必ずそれを知っているに違いなかったのだ。前後不覚の己が暗がりで舞香を違えようと、布団を相手にしたわけでもなし、相手がいるのは明らかでありその誰かがいるのならばなんらかの決着が必要だと考えていたのである。
「お優しい方です」
 掠れた声で彼女は言った。
「貴方は、本当に優しい人です」
 くすんだ肌を晒しながらそう言った。
「涙ほど、暖かいものはないのですね」
 違うんだという言葉は喉に引っ掛かり、肯定するような息だけが漏れた。打ち消そうにも言葉は通らず、両の手で涙を拭うことさえできない。自らの涙が、舞香への慕情と後悔だけでできているように捉えられることの嘘に秋吉の胸は恥辱ではちきれんばかりになっていた。この宿で舞香を想えば涙が流れることも、真相故に後悔が胸を塞ぐことも、彼が望んだことだった。その涙こそが彼女を愛していた証になるのだと知っていたからだ。秋吉が思い悩んだ一番のことは自分が彼女のことを本当に大切に思っていたかということだった。人を誤り情事にふける一方で恋人を死なせてしまったのであれば、それまでの彼女への想いまでもが心の中ですっかり錆びてしまうのではないかと危惧していた。心は見えないもので、彼女を想って哀しい気持ちをすることでしか、彼女への哀惜で自らを殴打するその痛みでしか秋吉は自身の感情に名前を与えられずにいたのだ。その卑怯な心を自覚していた彼にとっては、美しく飾られてしまうことが堪えがたい拷問のように思えた。

 一人になってただ舞香に謝ることが彼にできる最早唯一のことだった。それさえ済んで、指先を見つめながら雪煙を通過して湯船に身を沈めるとぼんやり空を見上げた。もうすっかり白んだ空が水の向こうに揺れている。思い出す肌の感触は、ひどくやわらかかった。

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