流れ星

Novel
 ガラス戸を開くと、凍ったように冷たい空気がジャージを貫いた。重ねて、吐息の白さが外の寒さを視覚化する。そんなものは肩に毛布を引っ掛けて無視の一択だ。ベランダに降りて空を仰げば、漆黒の帳に光、光、光。やっぱり今日は星がよく見える。
少し探せば牡牛座が見え、目先を東に傾ければ、リゲルとペテルギウス、オリオン座が輝く。無数に散らばっている光だって、存在しない線を網膜上に結べば、『散らばっている』のではなく、確かな意味を持ってそこに『並んでいる』のだ。
並んだ星々から、一つ、零れ落ちた。
(流れ星……!)
瞬間的に願いなど浮かばず、光の軌跡をただ追いかける。軌跡、なんて思うと机の上にやり捨てた数学を思い出して折角の発見に嫌気がさして、やだなぁ、なんて呟いて。
流れて行った光の粒は地平線に沈んでいく。それを見送り、天へと視線を戻しかけて、戻せなくなった。
光は消えなかった。否、それどころか光は強く拡がった。粒でしかなかった光が目の眩むような輝きで、街を覆わんばかりの大きさで、視界の中央をいやそう思う間に全てを陣取っていった。目が離せない。光が徐々に静まって、最後の一片が闇に散って、それからようやく魔法が解けた。
「母さん! 母さん!」
転がり落ちんばかりの勢いで階段を駆け下りる。リビングルームの母の背にもう一度呼びかける。
「母さん! 今、今……」
「なぁに、冬嗣、まだ起きていたの? 明日はテストなんだから早く寝ないと……」
興奮状態に素っ気ない反応が返ってくれば誰だってイラつくものだ。嫌な話題を出されれば、尚更に。
「あーもうっ、そんなことより
! 今、流れ星がさ……」
「そんなこと、じゃないでしょう! まったく……いくつになっても星、星って。志望校は決めたの? 参考書は? 星より前に見つけるものがあるでしょう? ほら、いいから早く寝なさい」
まくしたてて部屋を出ていく母の背には、一切言葉を受け付けない、とはっきり書いてあり、言葉未満のもやもやは、不完全燃焼のままにくすぶっていくより他ない。
「はぁ……」
半ば無意識に溜息が漏れていく。溜息を吐くと幸せも吐いている、と言っていたのは誰だったっけ。まるで溜息そのものが?幸せ?みたいで、とても信じられなかったけど。
すっかり冷めてしまった興奮を引きずって、踵を返した。いつまでも起きているとまた勉強、勉強、とやかましく言われるのは目に見えている。
『まったく……ひどいお母さんだねぇ』
背後からの声に驚いて振り返る。声の主はテーブルに腰かけ、ブラブラと足を揺らしていた。
『顔をあわせれば勉強のことしか言いやしない。ホント、ヤになっちゃうよねぇー』
「お前……何だ……?」
誰だ、ではない。何だ、だ。それは、形は人のようではあった。人の言葉を発してはいた。しかし、頭部は細く三日月のような形の星マークのマスクそれのみで、ヒラヒラとした薄っぺらな服の首回りに暑苦しい襟巻、到底足が入るとは思えない異常に反り返ったブーツ、そして見た目云々以前に突然家の中に出現した不可解性から考えても、それには何、と聞くのが相応しい。
『僕はねぇ…そうだな、?星の使い?とでも言おうか。君の願いを叶えにきたんだ』
怪しさ十割増。本当に何なんだコイツ。
『君、さっき、勉強なんてしたくない、楽に好きなことだけをしていたい、そう思ったでしょう? だいじょーぶ。僕が叶えてあげるよ、?夢の世界?でね』
あぁ、そうか。不審者だ。とりあえず警察を呼ばないと。
コードレスフォンに手を伸ばすと、?星の使い?は笑いながら言った。
『やめときなよ。もう、行くから……また後で、迎えに来るよ』
パチッと指を鳴らした、と思ったら、その『パチッ』がまだ空気に溶けきるよりも前に、?星の使い?の姿は消え失せていた。
「……は…?」
理解不能、の四文字が脳内で明滅を繰り返す。消えた? 消えた、のか?
「冬嗣! 早く寝なさい!」
母の怒声に押され、ふらふらと階段を上る。
―――『勉強なんてしたくない、楽に好きなことだけをしていたい、そう思ったでしょう?』
耳には、その言葉が残っている。否定なんて、できるわけがないだろう。


チャイムの音が、睡眠の底から俺をサルベージ。これを俺同様に目覚めの鐘のように感じる者もいれば、残酷な終戦命令に感じる者もいるだろう。ゆるゆるとしたまどろみを漂いながら、答案回収という最後尾席の責務を果たしていく。
「冬嗣ぅー」
席に戻ると、目の前で秋史が死人のような声とともに振り返る。
「数学死んだぁー……」
本当に壊滅的だったようで、いつものうるさいくらいの元気はなく、だらしなく背筋を曲げ、机に覆いかぶさる。
「ま、終わったんだから、気にしてもしょうがないさ」
「そうだよなぁー!」
秋史はその言葉を待ってましたとばかりに勢いよく跳ね起きると、両手をバンっと机に叩きつけ、ビシッと俺を指差した。
「そうだっ! 冬嗣、お前昨日の流星見たか?」
昨日の流星、といえばあれに違いない。直後に妙なものを見たせいで流星も全部夢だったのかと疑ってしまったが、今朝のニュースで取り上げられていたから確かにあれは現実なのだ。
「当たり前さっ! なんだったんだろうな、あれ」
「うーん…あんなに光ってたのにどこに落ちたかわからないなんてことがあるのかねぇ」
そう、昨日の流星は落ちた場所が判明していない。角度や距離で落下地点の予測は立てられるはずだが、その予測地点になんの痕跡もなかったのだ。光の大きさからすれば、空中で燃え尽きたのではなく、地表に落ちて爆発したであろうことは容易に予測でき、?流星?というより、?隕石?として扱われたっておかしくない規模のものはずだ。それが、見つけられない、なんてありえない、はずなのに。
「うーん……欠片が見つからないどころか地面そのものにまったく変化がないなんてなぁ…計算に誤差があったとしても、そんなに大ハズレするとは思えないし」
「ちょっとあんたたち、いつまで星の話をしてるの?」
うんうん唸っている俺たちの頭上に凛とした声が注がれる。見上げた先には長いポニーテールを揺らす少女。
「夜中に星なんか見ているから数学ができないのよ」
「お袋みたいなこというなよなぁ、夏希…」
げんなりとした様子で秋史が声を返す。確かに、母さんが言いそうなセリフだ。秋史どうよう幼馴染だが、最近こういう物言いが増えたように感じる。
「うるさいわね。とにかく、明日の英語の試験勉強やるから、準備するように!」
そう言って教科書を取りに自分の席へと戻っていく夏希の背中に、秋史が小さく漏らす。
「うげぇ…マジでお袋みてぇ」
「なっちゃんはねぇ、自分だけ流れ星を見られなかったから僻んでるんだよ」
隣でボブカットの少女がやけに楽しそうに言う。もう一人の幼馴染の春香だ。
「今朝のなっちゃんの第一声は『寝てて流れ星見逃した! 悔しい!』だったもん」
「バカッ! 春香、余計なこと言わないの!」
唄うように軽やかに喋る春香を夏希が慌てて止めにかかるがもう遅い。俺も秋史もニヤリと笑って夏希に攻撃を仕掛ける。
「なんだ、話が聞きたいなら素直にそう言えばいいのに」
「まったくだ。生の目撃者の話、いくらでも聞かせてやるぜ?」
意地悪く連携攻撃を仕掛ける俺たちに、夏希は耳を真っ赤にして叫ぶ。うん、おもしろい。
「うるさぁいっ!! なんで三人とも見たのに私一人仲間はずれなのよ! みんなずるいよ……」
ずるくはない。そう思いながら春香を見ると小さくVサインをしている。なんだかんだで夏希をいじめて一番楽しんでいるのはコイツだ。一番上手いのも、春香だ。秋史と夏希の言い争いをにやにやと眺める春香に、ふと思いついて、馬鹿らしいことを聞いてみる。
「あのさ、まさかとは思うけど、?星の使い?とかって名乗るなんか気味悪いやつ、来たりしてないよな?」
何それ、わかんねぇ、夢でも見たんじゃない? なんてやり取りを予想し、もしかしたら期待すらしていたかもしれないのに、現実はそううまくいかないもので。
「え? 来たよ、っていうか、なんで知ってるの?」
おいおい、冗談だろう? 聞いておいてなんだがそんな馬鹿な。
「待て待て、お前ら、なんで俺の見た夢の話をしてるんだ?」
秋史もだと? キョトンとしているところを見ると夏希は違うみたいだが、三人が同じ夢を、しかもあのよくわからん変な夢を同じ日に見るのか?
「あの…変なマスクか?」
「そうそう、襟が暑そうで、」
「靴もださかったなぁ」
「いや、むしろまともなトコあったっけ?」
「?夢の世界?ってなんなの?って感じ」
「あいつのせいで、ニュース見るまで流星も夢かと思ったよ」
どうも?あいつ?で間違いないようだ。夏希は一人でずっと「???」を連発しているが、当の俺たちのほうが説明して欲しいくらいだ。三人が奇跡的な確率で同じ夢を見た、のか、新手の宗教団体みたいなものが集団で動き回っているのか。なんにせよ、普通ではない。
「ちょっと、冬嗣、どういうこと?」
「あぁ、えーっと、昨日、流星を見た直後にな…」
いい加減可哀想なので、ありのままを説明し始めたまさにその時、俺たちの世界から光が消えた。
「えぇっ! なに、停電!?」
春香の悲鳴が聞こえる。違う、停電じゃない。窓の外の明かりも消える停電なんてない。すぐ隣にいた春香の輪郭も埋もれてしまうほどに濃密な闇。箱に密封されたおもちゃの気分だ。
「何あれ、光…?」
少し離れた所から夏希の声もする。確かに、いつの間にか小さな光の粒が宙を漂っている。光の粒は少しの間ふわふわと彷徨うと、なんの前触れもなく、弾けた。反射的に閉じた目を開くと、目の前に?星の使い?が浮いていた。
「「「お前はーーーーーーっ!!」」」
俺、秋史、春香による完璧なシンクロ。またも夏希が一人キョトン、と、取り残される図が完成する。
『どうもどうも、みなさんの話題の中心、噂の?星の使い?でーすっ!』
((((………うざっ!!))))
声に出さなくてもわかる。今のはきれいな四重奏だったに違いない。
「あー…夏希、昨日の夜、コレが俺たち三人のトコに来たんだ」
何故だろう、若干憐憫の目で見られた気がする。
「ちょっと! アンタいったいなんなの!?」
威風堂々と仁王立ちし、夏希は?星の使い?へと問いかける。やはり?誰だ?ではなく?なんだ?だ。
『なんなのだね君は! 初対面だというのに失礼だな……しかし僕は広い心で許してあげよう。いいかい、僕は?星の使い?というんだ』
間違ってはいない。コイツは確かに正論を言っている。それはわかる、わかるんだけど、ストレスしか感じないのはどういうわけなのだろう。間違いなくコイツが悪い。
『まったく、気の強いお嬢さんだね…だけど、気に入ったよ。特別に、君も夢の世界に招待してあげよう!』
見なくてもわかる。夏希は迷惑そうな顔しかしていない。そしてこれがいわゆる?呆れてものも言えない?というやつなのだろう。
「昨日も思ったんだけど…夢の世界って、なんなの…?」
春香の質問に?星の使い?は驚いたようで(顔が見えなくてもあれだけ大仰な仕草をされればわかる。腹立たしい)、子供を諭すような口調で言った。
『君たちは、昨日の流星を見ながら思っただろう? ?勉強なんてしたくない??好きなことだけやっていたい?って。それを叶えられるところさ! そこでは勉強なんて勿論しなくていいし、何一つ頑張らなくていい。ただ、願えばいい。そうすれば何でも手に入るし、何だってできるし、何にだってなれる。素晴らしいだろう? そんな世界に連れて行ってあげるって話さ。今だってそう。君たちが?行きたい?とさえ願えば、すぐに連れて行ってあげるよ』
馬鹿か、コイツは。そんな話を信じるとでも思っているのか。要するに誘拐だろうが。そんな俺の考えを裏切るように、スッと手が挙がった。
「行きたーい」
「秋史ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!」
『はいはい、お任せ! レッツゴー!』
俺の怒声に被せて発せられた?星の使い?の妙にハイテンションな声が響くのと同時に、世界が再び闇に沈む。あぁ、くそっ。やっぱり巻き込まれるパターンか。

気がついた時には、と言っても意識を失っていたかも定かではないのだが、どちらにせよ、俺が次に見た景色は果てしなく地味だった。
だだっ広く真っ白な空間に大きなテーブルが一つと椅子が四つ。そしてそのどれにでもなく偉そうに宙に腰かける?星の使い?。
「もう…馬鹿っ!!」
夏希が秋史を怒鳴りつける。
「なんで勝手に?行きたい?なんて言っちゃうの! みんな巻き添え食っちゃったじゃない!」
いいぞ、もっと言ってやれ夏希。今ならその説教口調も大歓迎だ。秋史の馬鹿もここまでくると笑って済まないレベルだ。
「いやぁー、だってコレ、俺の夢だろう? なんて言ったかな…ヨクセイム…? とかってやつ。夢のなかで夢だってわかっている奴はなんでもできる、みたいな? だからあんまりウルサイとお前も…って痛ぇっ!」
秋史の妄言を断ち切るように夏希が容赦ない一撃を浴びせ、秋史が悲鳴をあげる。まったく、あの馬鹿に覚醒夢なんて単語を中途半端に仕込んだのはいったい誰だ? 訴えてやろうか……いや、俺かもしれない。
「え…痛い…!? って、こと、は…」
?夢じゃない?という答えにようやく辿り着いたのか、秋史の表情が凍りつく。続いて?やばい?と?まずい?が交互に渦を巻き、周りを見回して状況を確認、そして、
「悪いっ!」
溜息、それから苦笑。流石というか、秋史らしいというか。まぁ、もうしょうがないとしか言いようがない。
『まぁまぁ君たち、彼を責めては可哀想だ。許してあげたまえよ』
「「「お前が言うなぁっ!!」」」
諸悪の根源たる?星の使い?に一斉ツッコミ。ツッコまれたほう楽しそうにケラケラと笑う。
『まぁそうカッカせずに、折角?夢の世界?に来たんだからさ、何か願いたまえ』
やはり偉ぶった言い方。だが、苛立ちと同時に感じる僅かな違和感。偉そう、なのだ。まるで社長ごっこでもして遊んでいる子供のような。下手な作家の創った小説に出てくる大御所のような。根っからの傲慢さではなく、ただ偉そうなキャラを演じて満足している、そんな印象を受ける。
「本当になんでも叶うわけ?」
俺がそのブレに気を取られている内に、秋史が小さく手を挙げて問う。順応の早さは流石、と言っていいのだろうか。俺はそもそも謎の暗転やら空間移動にすら戸惑っているのに。この状況にさっさと慣れるのはどうかとも思うが、こんな意味不明な状況なだけに、あの適応力が俺にもあったらと願わずにはいられない。きっと春香と夏希もそう思っているだろう。呆れながらも羨ましそうな顔で秋史を見ている。
「じゃぁ、美少女をたくさ……」
眼差しが一瞬で冷めたものに変わる。そんな空気を感じ取ってか、秋史は再び俺たちを見まわし、冗談だよ、と舌を出した。どこまで余裕なんだコイツは。
「美味い飯が沢山食べたい!!」
星の使いは満足そうに頷いて指を鳴らした。次の瞬間、テーブルの上に豪華な料理が並んだ。ステーキや七面鳥、サラダにスープ、あとも名前は知らないが美味しそうなものがズラリだ。高級レストランに行って『全部下さい!』と言ったような感じだ。
「おぉ…すっげぇ……」
秋史はふらふらと近づくと、やけに緩慢な動作で椅子に座り、右手にナイフ、左手にフォーク。一番手前にあったステーキを一口サイズに切り、食べた。ゆっくりとした咀嚼。そしてそれを何故か無言で見つめる俺たち。噛み砕かれた肉が食道を通って胃に落ちて、
「うまいっ!」
たった一言そう発すると、秋史は料理にがっつきだす。さっきまでとは対照的にすさまじいスピードで、作法も何も気にせずに、ただただテーブルの上の食料を胃に納めていく。
「本当に叶うの…? じゃあ、あたしは綺麗な洋服がいっぱい欲しい!」
『お安い御用さ』
再び星の使いが指を鳴らし、パチンッという軽い音と共に衣装掛けが現れると、半ば悲鳴じみた歓声の語尾にハートマークを匂わせながら、夏希は並んだ服を物色し始める。俺はどちらかというと夏希のその?女の子?感に呆気にとられてしまう。
「すごい、すごーい! 私はねぇ…色んな本が読みたいな!」
言った途端に本棚が出現し、春香は目を輝かせた。これが?何でも叶う夢の世界?か。成程、確かに凄い。
『さて、君は何がお望みかな?』
俺の望み? 欲しい物、ねぇ…俺は、
「はいはい! 何でも叶うってさ、?プロサッカー選手になりたい?とかでも叶うのか!?」
いつの間にか料理を食べ切った秋史が大きな声をあげる。あの量をもう食べるなんて…どんな胃袋をしているんだこいつは。
『当然さ。チームの希望はあるかい?』
「鹿島! 鹿島アントラーズ!」
『そうかそうか…さぁ、君はもう鹿島アントラーズのエースストライカーだ。試合に行ってきたまえ』
見た目にはなんの変化も見られないが、どうやら秋史の夢は叶えられたらしい。本人も実感が湧かないのか小さく首を傾げつつ駆けて行く。
『さぁ、君の番だ。好きなことを願いたまえ』
手を差し出す星の使いを一瞥し、俺は願うのではなく、問う。
「この?夢の世界?とやらに空は、星はあるか?」
『勿論だよ。空中散歩でもするかい?』
「いや、星があるのならいい」
星の使いに背を向けて歩き出す。外に出て星を見よう。あそこにいるとなんだかよくない気がする。秋史達を見ていて感じた小さな違和感。この世界に感じたものとは違う、なにかだ。これを忘れてはいけない、気がする。なんて考えながら歩いていたから結構な距離を歩いたはずなのだが、まだ外には出られないのか? 秋史はどこから出たのだろう。くそう、俺も早く外に出て星が見たいのになぁ。
――――パチンッ
小さな音が聞こえた気がして、見上げるとそこにはもう億千の星々が広がっていた。感動に胸が震える。そう、こんな星空が見たかったんだ。


俺は知らなかった。俺のいなくなった後に星の使いが呟いたことを。
『空も星もあるに決まっているさ。山だって、海だってある……君が望むならね』


?何でも叶う夢の世界?というのは決して大袈裟でも誇張でもなく、まさに文字通りで、どんな願いだって本当に叶っていたようだ。
といっても、俺は毎日星を眺め続け、星の研究ばかりしていた。今までみたどの文献にもないまったく新しい空、その星図をじぶんが作っていくと思うととても楽しくて、願いといっても朝夕の食事ぐらいしかしていなかったが。
「冬嗣ー!」
星図作成に疲れ、球形していると春香がやってきた。
「おぉ、どうした? 今日は何になったんだ?」
「今日はね、ケーキ屋さんだよ。だからおすそわけです!」
差し出された箱には可愛らしいプリントがされ、中にはショートケーキが1つ入っていた。特に将来の夢のなかった春香は趣味の読書を楽しみつつ、色んな職業をとっかえひっかえだ。スチュワーデスだったり、花屋だったり、書道家だったり。
「一度やってみたかったんだよね、ケーキ屋さん。明日は司書さんをやってみようかな…」
秋史は毎日ハットトリックを決め、連戦連勝、楽しそうだ。きっと今日もヒーローになって帰ってくるのだろう。俺はサッカーのことはよく分からないが、秋史の話しぶりからして、スーパープレイを連発しているのであろうことは確かだ。
夏希は意外なことに保母さんになった。最初はみんなで大笑いしたものだったが、楽しそうに子供たちの話をする夏希を見ていると、こっちまで楽しくなってくるから不思議だ。
みんな、夢を叶えている。この世界の力を存分に使い、享受し、楽しんでいる。
「冬嗣はずっと星図を作ってるけど、なりたいものとか、ないの?」
俺がなりたいのは天文学者だ。もっと正確に言うのなら天体物理学者。更に言えば、星の性質、つまり光や動きや温度、あるいは天体間の相互作用を物理的に解明するのが天体物理学者なのだが、その中でも、観測結果から新たな現象の予測モデルを作る理論天体物理学者というやつに俺はなりたい。ままごと程度にもなっちゃいないが、この星図作りだって、一応は観測データを積み上げているのである。
勿論、俺が望めば何百年にも渡る観測データでも、電波望遠鏡でも衛星探査機でもなんでも出てくるのだろう。それらを駆使して研究する天文学者になれるのだろう。天文学者になれたらどんなにか素晴らしいだろうか。心からそう思う。だけど、何故だろう。天文学者になりたいのに、なりたいと願いたくない。そこになんの差異があるのかは俺自身よくわからない。わからないから、春香の問いに曖昧に首を振る。
「おーっす、春香、冬嗣。元気にしてたか?」
苦い沈黙を気にもせず、秋史が俺の肩をバシバシと叩きながら通り過ぎる。スーパープレイでヒーローになってきたのだろうか。
「今日もハットトリックきめてきたぜ。あぁ、疲れたなぁ…」
席にどかっと腰を下ろし、慣れたものですぐに料理を出して食べ始める。この世界に一番順応しているのは間違いなくこいつだ。
「ただいまー」
続けて夏希が帰ってきて、今日の園児たちの様子を話しながら秋史の隣に座り、夕食を食べていく。
「それでね、桃子ちゃんが私の似顔絵を描いてくれたのよ!」
パンにバターを塗りながら夏希が微笑む。保母になってからすっかり性格が丸くなった。よかった、のだけど、からかい甲斐もなくなって少しつまらない。
楽しそうに話す夏希、相槌を打ちながら時折自分の話をする春香、黙々と食べ続ける秋史、フラリと現れては愉快そうに茶々をいれる星の使い。もう見慣れた風景だ。
――見慣れた、風景? そうだ。見慣れた風景。当たり前の景色。なにがひっかかるんだ? いつも通りのこと? 違う。そうじゃない。見慣れた、に感じる違和感でもないこれは、なんだ? 見慣れたなんて、当たり前だとわざわざ考えるなんて、まるで、
「ほら、冬嗣も食べようよ」
春香に呼ばれて思考が途切れ、感じていた何か、は消えてしまった。短く返事をして俺も席に着く。意識して取り戻すのは不可能だろう。
好きなことだけをし、好きなものだけ食べる。星の使いが約束した通り、俺たちは何不自由なく、楽しさの中で生きている。当たり前のように全てをこなす。そこには疑いの余地など一片もなく、願えばそうなると信じきっている。秋史のように単純に、純粋に、この世界に適応しきっていた。そう、あの時願ったように。


星図作りは難航した。なにせ不確定要素が多すぎる。公転、自転の速度に観測天体との距離、光量。そもそも俺の持っている知識を当てはめていいのかさえ本当のところはわからない。星の使いからの数々の提案は半ば反射的に拒み、独力での作業を続けた。意地もあったし、なにより頭ではないどこかが『いやだ!』と叫ぶのだ。
苦労する俺とは対称的に、春香も夏希も相変わらず楽しそうだった。春香は思いつく限りはやりきったのか読書三昧。夏希も園児との一日の話が尽きない。
秋史はというと、日増しに退屈していくようだった。最初の頃は、『さすがプロだぜ! ほしいときにズバッとパスをくれる!』なんてはしゃいでいたのに、最近は決めた点数も言わずに食べてばっかりいる。まさかスランプだなんてことはないだろう。?何でも叶う夢の世界?なのだから。
「いやぁー、楽しかった!」
久々に秋史がルンルンで帰ってきた。口に出さずとも俺たち三人はみんな秋史を心配していたから、ホッとしながら秋史を取り囲む。
「なんだよ、えり上機嫌じゃねぇか。どうしたんだよ」
よく聞いてくれましたとばかりに秋史の頬が緩む。にやにやと笑いながら夕食を願い、出すと、目をキラキラと輝かせながら話し始める。
「今日はさ、逆転弾を放ってきたんだよ」
「すごいじゃん! 何点とったの?」
「4点。スカッとしたぜ!」
そう言ってまたにやりと笑う。今日は本当に機嫌がいい。
「ハットトリック以上じゃない! 今日で何回目?」
夏希の何気ない一言。返ってきた答えは全く予想外のものだった。
「ハットトリックじゃねぇよ。満塁ホームランだから」
「「は!?」」
満塁ホームランってことは、野球、ということだ。あの超絶サッカー馬鹿の秋史が野球? あまりのことに俺たち3人は絶句。秋史は気づかずに滑らかに喋り続ける。
「なんか最近サッカー飽きちゃってさ、気晴らしにやってみたんだけど、野球って楽しいな! これからしばらくは野球やろうっと」
目眩がしそうだ。いったい何があったら秋史の口から『サッカー飽きちゃって』なんて言葉が出るようになるんだ? ここはどんな願いも叶うのだろう? スランプも不調もレギュラー落ちもなく、好きなプレーができる。なのに、何故?
春香と夏希も同じことを考えているのだろう。奇妙なものを見るように秋史に視線を送っては眉間にしわを寄せる。
『いやいや見事なグランドスラムだったねぇ。気持ちよかっただろう?』
面倒な時に面倒な奴が来やがった。っていうかこいつは見に行っていたのか。
「すげぇ楽しかった! いやぁ、本当、最高だ!」
楽しそうに秋史は笑う。プロサッカー選手としてゴールを決めてきた時と同じように、笑う。夢を叶えたあの時と同じ笑顔。それなら、これもまた秋史の夢だったのだろうか。
『そうだ、冬嗣くん。まだ君だけ夢を聞いていないじゃないか! あれだけ毎日熱心にやっているんだ、あるのだろう? 夢が』
暗に、いやむしろ思いっきり『言え』と言っている。『叶えるから言え』と。俺の夢をこいつが叶えてくれるのだと。秋史や夏希にしたように。
『どうしたの? あるんでしょう、夢。なりたいものがさ。君がそれを言葉にして、願えば、パチンッって音がして、全て思うままさ。簡単なことさ。ただ願うだけ。そうすれば、僕が叶えてあげるよ』
そうか。そうだよな。なんで気づかなかったんだ?
「俺の夢は、天文学者になることだ」
満足そうに頷いて、星の使いが指を鳴らそうと腕を上げる。俺の夢を、叶えてくれる。
―――それは、違うだろう?
「でも、お前に叶えて欲しくなんかない」
『は…?』
動きが止まる。星の使いだけじゃない。春香も、夏希も秋史も、誰も動かない。何も喋らない。この世界の全てを、俺の言葉は否定する。
「お前の言う通りさ。言えばなれる、願えば叶う、こんなに簡単な方法はないだろう。だけど、こんなにつまらない方法も、他にはない」
依然、何一つ動かない。まるで誰かが?時間よ止まれ?とでも願ったかのように。夏希、秋史、お前たちには俺の言っている意味がわかるか?
「喜べないんだよ、楽をして手に入れても。どんなに楽しくたって、どんなにおもしろくたって、嬉しくはないんだ。苦しくて、辛くて、それでも諦められなくて、そうやって辿り着くから大事なんだ。苦労した分だけ執着できるんだ。無条件で誰かに叶えてもらった夢なんて、もう自分の追いかけた夢じゃあなくなっちゃうんだよ」
目線は?星の使い?へ。言葉は夏希たちへ。もしかしたら俺の言葉はただのキレイゴトで、みんなに辛い思いをさせるだけかもしれない。それでも、伝えたい。それもまた、俺の願いだ。
『わかった! わかったよ冬嗣くん! 君はあれだろ? 過程が欲しいのだろう? 努力して、苦労して、挫折してまた立ちあがる、そんなサクセスストーリーが欲しいのだろう? 安心したまえ。そんな願いだって叶えてしまうのがこの?夢の世界?じゃないか』
本当に何もわかっていない。いや、むしろコイツはきっと、わざとわかっていないフリをしているのかもしれない。
『さあ、言ってごらん。どんな風に夢を叶えたい? どんなストーリーがお好み? 僕が全部、ぜーんぶ叶えてあげるよ!』
だから、それがだめなんだって。それが、嫌なんだよ。
「俺は、夢を叶えてもらいたいんじゃない。夢を叶えたいんだ。自分の力で夢を叶えたいんだ。だから、俺にこの世界は必要ない」
?星の使い?は目に見えて慌てだした。偉ぶった余裕は消え、子供のように喚き散らす。
『願え! 願えよ! 何でも叶えるから! 何が欲しい? 何がやりたい? 何を見たい? ねぇ!』
「願うよ、一つだけ」
ごめん、夏希。ごめん、秋史。ごめん、春香。俺は自分が正しいなんて言わないし、言えない。でも、間違っているとも、思わない。
「俺たちを、元の世界に戻してくれ」
―――パチンッ
世界がまた、闇に沈んだ。


「俺、飲み物買いに行ってくる。誰か一緒に来てぇ」
「仕方ないわね、ほら、早く行くわよ」
秋史と夏希が連れだって教室を出て行く。秋史のワイシャツの下にはサッカーのユニフォームが透け、夏希は母親のように上から喋る。何も変わっちゃいない。俺は、夢を見ていたのだろうか。
「夢じゃ、ないよ」
俺の考えを見透かしたように春香が言って、英語の教科書を鞄から取り出す。そうか、今は試験期間中だったんだっけ。
「私が?願った?から、夏希も秋史も覚えていないけどね」
確かに、二人にとって、特に秋史にとってはあそこでの記憶はないほうがいいだろう。そこまでは気が回らなかった自分が恥ずかしい。
「結局、なんだったんだろうね、あれは」
願いを叶える、夢の世界。そして?星の使い?現れたタイミングと併せて考える限り、
「流れ星、なのかな…」
何故自分たちが呼ばれたのかはわからない。でもあの流れ星を生で見た、というのが共通点だ。そしてお恐らく、意識していたにせよ無意識にせよ、テスト前、受験前で?勉強から逃げたい?と思っていただろう。それが叶った、ということなのだろうか。
「違うと思うよ」
立ちあがって春香はカーテンを開く。外はもう薄闇に染まっている。時間がまったく流れていなかったわけではないようだ。
「私は、冬嗣みたいに星に詳しくはないけど、流れ星って長い間宇宙を流れるんでしょう? だから、」
友達が欲しかった、なんてダサいファンタジーみたいなオチ? 春香、それはいくらなんでも小説の読みすぎだろう。現実にそんなことがあるわけがない。でも、もしもそんな純粋で切実な思いだけだったとしたら、
「皮肉だな。?何でも叶う夢の世界?で、唯一叶わなかったのはアイツの願いだったってわけだ」
別に可哀想だなんて思わない。友達になればよかったとも、今からでもなろうとも思わない。でも、アイツを憎んでいるわけでも、アイツが悪いと思っているわけでもない。だから、残るのは小説より奇なるその可能性を否定していたい苦い気持ちでだけで。
「さ、英語やろう、英語! 冬嗣の苦手な英語だよー!」
後味の悪さを振り払うように、春香は晴れやかに、唄うように言った。
「えー…英語ヤダー……」
「苦労しないと意味がないって言ったのはだぁれ? がんばりなさいな!」
「恥ずかしいからやめてくれ…」
クスクス笑う春香の後ろで、星が一筋、流れていった。
―――アイツの友達になってくれよ
フッと浮かんだこの願いは、星が叶えてくれたらいいのに。
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