かげろふ

Novel
重たく濃密な百合の香りは呼吸だけでもむせかえりそうな程だったが、決してそうなりはしないのだとわかっていた。これはよく見る夢なのだ。甘い甘い匂いに全身が麻痺していき、四肢に意思を通せぬままにただ横たわる。見回すと一面に広がる真っ白な華。その合間に見える影の正体を俺は知っている。あれは、猫の死体だ。猫が死んでいるのだ。あぁ、やっぱりこの夢だ。動かない体を諦めて眼を、閉じる。


 その瞬間が来るのは意思の外からで、流されるままに手を離す。右手から解き放たれた光の筋が的に刺さると、背後で空気が揺らぐのがわかった。長弓を降ろし礼すると、女学生たちが一斉に拍手する。胴着も緋袴もぎこちない彼女たちは実際に矢を射るところなど初めて見たのだろう、一様に妙な熱の浮いた顔をしていた。
「本日はありがとうございました」
 級長の礼に合わせて居並ぶ少女たちが一斉に頭を下げる。こちらも再度頭を下げてから教員の男に視線をやると、解散の号令が出された。
 女子師範学校への礼法指南の命が下ったのはつい一昨日のことだった。前任者である従兄清信から届いた文書には学校の所在と担当教員しか書かれておらず、あとは俺の都合など一切無視した単純な命令文と、弓を持って行けという雑な添え書きが並べられていた。流派の宗家嫡男たる彼の命令に逆らえるはずもなく、俺は葉月の終わりに湯島まで出向いたのである。
「本日は大変お世話になりました。教員室でお茶でもいかがでしょうか」
 従兄同様なんの説明もなく俺を道場に呼びつけた教員の言葉に首を振って身支度をする。彼が最後になんの脈絡もなく実射を見たいなどと生徒を焚きつけたお陰で大層肝を冷やしたのだ。そもそも彼自身も弓術などあまり知らないのだろう、ただ見たいと言うだけで射法もなにもなく、中った方がよかろうなどとこちらが気を回す羽目になったのだ。
「こう言ってはなんですが、清信様よりも話が明瞭で生徒たちも楽しんでいました。これからもよろしくお願いいたします」
「はぁ、いえ、私には威厳がまだ備わってないだけですのであまり褒められたことではないのですよ」
 分家の人間に宗家嫡男への遠回しな悪口を叩くほどに無遠慮なのか、それとも俺を実弟だとでも思っているのか定かではないがこの男に迂闊なことを喋るとこちら の首が飛びかねないのは確かなようだ。実際のところ堅物一本調子の従兄よりも、幾分若くて口の回る俺の方が女生徒には人気であろうし、それを見越しての采配なのは間違いないが分家の人間がそう口にするのは無論法度なのである。
「では私はこれで失礼致します。ありがとうございました」
 道場へした礼にまでお辞儀を返してくるものだからやはりあの男は間抜けに違いない。ここへ月に一度指南へ来ると思うと暑さのせいでなく目眩がした。
 湯島から住まいのある浅草までは徒歩で半刻ばかりかかる。炎天下に弓を背負って歩くには苦しい距離であるが、武芸の道を行く身としては涼しい顔をしていたいところで、首もとを緩めることなく進んでいく。従兄にかかれば心身の鍛錬の一つも兼ねろなどと大真面目に言われそうで、その堅い顔を想起するだけで自然と汗が引いていった。しばらくして凌雲閣が見えてくると、ようやく帰ってきた心地がした。
 暑さに根負けして馴染みのカフエに入ると、長弓を壁に立てかける間に冷えた珈琲が運ばれてきた。運んできた女給の白木冬子はここの店主の娘で、輝くように白い肌と照る黒髪が非常に美しい。礼法指南をしていた少女たちとは違い、彼女は少女と大人の境にいる。その開きかけの蕾からはどんな華を咲かせるかを伺い知ることはできないが、彼女が看板娘として人気が高いのは店に半刻もいればわかることだ。
 二年程前からこのカフエに通い詰めている理由の一つには、彼女の気だてと応対の心地良さに因るところも大きく、来る度に何かと言葉を交わしており、俺よりも二つ下だがお互い気の知れた間柄だ。湯島に出向くことも話していたからだろう、注文前なのに彼女の対応は早かった。
「湯島から暑い中を歩いていらしたんですか?」
「武芸者にとっては炎天下を歩くのも心身の鍛練ですからね」
 くすっと笑った彼女にため息をついてみせる。謝礼の中から交通費を出すのが馬鹿らしかっただけだが、従兄の言葉を借りた方がもっともらしく聞こえるらしかった。真に受けて真面目な顔をする冬子に含み笑いで視線を投げながら珈琲を啜り身体を冷やす。火照った喉を冷たい液体が流れていくのは心地よく、冬子に礼を言った。微笑んで客をとりに行こうとする彼女を制して俺は包みから本を取り出した。
「これ、一昨日話していたものです」
 「改造」と題されたその月刊誌は二月前のものだ。新年から新しく連載が始まった小説を目当てに冬子が買っているのだが、長風邪で買い損なっていたものを女学校から借りてきたのである。
「まあ!」
 一瞬嬉しそうな顔をした冬子だったが、その表情はすぐに曇ってしまった。しまった、月次を間違えたかと焦る俺に彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんなさい、とても嬉しいのだけど、その本は」
「私が彼女に差し上げました」
 気取った調子の声が冬子の言葉を遮った。声の方へと首を向けるとシヤツとベストにハツトを被った男が歩いてくるところだった。
「なに、出版元にちょっと知り合いがありましてね。在庫を回してもらったのですよ」
 得意げにつらつらと話す男は紳士を気取っているのだろう、足は不気味に光る革靴、襟元には蝶ネクタイをし、彼が座っていたのであろう席にはステツキが見えた。貧弱な口髭まではそれなりに風体が整っているが、体つきが丸みを帯びているために全てが台無しになっている。懐中時計をせわしなくいじっている様子は神経質な性格を匂わせた。近くまできてみると存外若いその男にどこか見覚えがあるようで首を捻っていると、ややあって彼は俺を捕まえてこう言った。
「ふん、君が冬子さんの言っていた宮本雅清か」
 脂が浮いた顔の不遜な態度に腹をたてるよりも前に不信感が浮かび上がる。冬子がいったい俺の何を言ったというのだ。そしてそれがおまえにとってなんだと言うのだ。その二つの意を込めて冬子を見やると、心なしか紅潮した彼女は咎めるように男を見た。
「福澤様、勝手を仰られると困ります」
 福澤の名前を聞いてようやく合点がいった。この男の正体は福澤財閥の御曹司、福澤駒吉であろう。新聞で見た親父の桃介に似たところがある。最も、桃介のほうは息子のような趣味の悪い服格好はしていなかったが。
「ふむ、カフエに弓のような後進的で野蛮な道具を持ち込むあたり感心した男でないのは確かだね」
 壁に立てかけた弓袋をちらと見て厭らしく笑う。感心な男ではないようだ。それに、彼のような人間が愛用する拳銃とやらと違って四十間離れた屋根の上からだって俺はこの男を射抜く自信がある。それを後進的と呼ぶなら教養もないに違いない。とにかく彼は西洋の先進主義的なところがあるようだ。
「下町のカフエにそんな形式ばった服で来るとは私などより余程頭がよく出来ておいでですね、福澤駒吉殿」
 そう声をかけてやると福澤はかなり狼狽したと見えて、まず冬子を見、彼女の表情を確かめてから苦々しげに言葉を返した。
「ブラボオ、と言わせておくれ。もっと頭の悪い男だと思っていたがどうやら違うらしい」
「福澤様!」
 冬子がほとんど悲鳴のような声をあげた。顔色はいつの間にか蒼白に変わり、眼をつり上げている。どうやら怒っているらしい。福澤が冬子を怒らせる程に無神経なのか愚かなのかは定かでないが、俺を恋敵と思いこんでいることと、俺の最も厭う人種であることは間違いなかった。何も洋風のものは端から嫌っているわけではない。ここのカフエだって洋風だし、珈琲だって西洋の産物だ。しかし福澤のようなあめりかともふらんすともつかないような西洋かぶれの軟派な人間が俺は大嫌いなのだ。
「ほかに御用がなければ席にお戻りいただけますか。私は疲れているので、知らぬ男と相席で休憩するのは御免こうむりたい」
 断れば承知しないぞと睨みつけてやるとさすがに気配を察したのか退く気配を見せた。それでもまだ冬子に未練があるのか、
「冬子さん、明日の午後はお手透きでしょうか。よろしければ私と活動写真を御一緒しませんか」
 などと言う。俺は福澤がこれ以上近くに居る ことが耐え難かったことに加え、冬子がこんな男と活動写真に行くのが全く面白くなかったからつい口を挟んでしまった。
「明日の午後は私と活動写真に行く約束でしたよね、冬子さん」
 言葉にしてからああしまったと思ったがもう遅い。嘘をつくつもりはなかったのだが、「改造」に対する意趣返しのような形になってしまった。冬子の言葉一つでこの浅はかな行為は明るみに出され、俺は福澤の軽蔑するところとなるだろう。
「そうなのです、だから明日は御一緒できませんの。ごめんなさい。」
 俺が耳を疑ったのは言うまでもないだろう。彼女は何の疑問を呈することなく同調し、薄く微笑みかけてくる。福澤はといえば呆気にとられた様子で懐中時計の蓋を開けたり閉じたりしているばかりで、言葉を挟む余裕もないようだ。俺が凌雲閣にいついつなどと話をする間に顔を真っ赤にして自席へと戻っていく。
「明日、きっと来てくださいますよね、本当に」
 どこか泣きそうな声で冬子は念を押した後に晴れやかに笑った。色白の頬に差した仄かな紅が少女の顔に艶めかしい大人の表情を添えている。かつて見たことのないその艶にどこか薄ら寒いものすら感じるほどだった。声が出せずに頷いてみせると彼女は遠席の客から注文をとるべく、上機嫌な足取りで俺の机を離れて行った。その歩く様さえもどこか妖しく目を奪われる。残された珈琲は少し温まっていったが、汗はもう引いていた。


 凌雲閣の前に現れた冬子はいつにも増して美しかった。頬の白さや唇の紅は淡い化粧によって品がよく際だち、結い上げられた髪の隙間から見える首筋に浮いた微かな汗の滴さえもが彼女の目映さに加担するように輝いた。女給姿とは違う着物の装いは目新しいことを除いても心地よく、胴着よりは少し上等なだけの袴姿の俺には不釣り合いな程だった。
「お待たせしてしまいましたか」
 彼女はそっと人目をはばかるように俺に囁いた。耳朶に当たる微かな吐息に頭が痺れる。いつから彼女はこんなんも妖艶な力を身につけたのだろうか。
「いえ、全く。参りましょうか」
 つい本当に反射的に差し出した腕を彼女は躊躇いがちにとった。柔らかな指遣いに一瞬我が身よと思い彼女を見やる。白かった頬に差した紅は昨日見せたものと変わりなく、俺の心を震わせた。
 ふらんす物の活動写真は流行の浪漫調で、周りにいるのはどうも恋人同士ばかりらしかった。こういう場に不意に女性を誘うなどと福澤の神経を疑ってみたところで自分の立場に思い至り俺は顔が赤らむのを感じた。俺が冬子に寄せる気持ちには少なからず男女の好意とでも呼べるものが含まれているのだろうか。右隣の冬子へ視線を投げてみると思いがけず彼女のそれとぶつかった。微かな潤みを含んだ瞳は俺に期待しているようにもただただ感涙しているようにも見え、見つめ返さざるをえない。自然彼女の顔が大きくなると思えば、俺が近づいているのだった。二つの唇がまさに一つならんとしたとき、講談士が一際大きな声を張り上げて終わりを告げる。空気が緩み、俺たちはどことなくよそよそしげに居住まいを正すのであった。
「福澤は、あなたの婚約者なのでしょうか」
 凌雲閣を出て門扉の脇に佇んだ俺は冬子にそう尋ねない訳にはいかなかった。もしも彼女と福澤との間に約束事でもあろうものなら俺は差し出がましくするべきではない。福澤の様子からはその気配は十分に感ぜられたが、しかしそれでも口にするのを止められはしなかった。
「福澤様は、先日父に私と結婚したいと御申しになられたのです」
 彼女の表情が明るくないことをこれ程喜んだことはかつてなかった。少なくとも冬子が福澤を好ましく思っている訳ではないのだ。彼女とあの紳士気取りが交際を経ていない事実が俺を喜ばせた。
「恥ずかしい話で御座いますが、これまで私は殿方と交際などしたことがありません。父もそれを案じておりまして、若くはないのだからいい加減身を固めないか、とおっしゃられたのです」
 上目遣いの彼女の瞳はやはり期待を孕んでいた。俺はその期待に応えることができる。それはまた俺の望むところでもあった。
「つまり、つまり他に貴女を娶りたいという男が名乗り出ることはまだ許されているのですね」
 冬子は小さく頷いたように見えた。俺は腕にかかる彼女の腕をとり引き寄せる。抗うことなく胸に頬を寄せた冬子の項が艶やかに俺を誘う。髪から甘く漂う薫りに俺は目を伏せる。
「冬子さん、愛しています。私の元へ嫁に来てくださいませんか」
 湿った空気が袂を濡らし、冬子の頭が肯定の方向へ動いた。俺が本流ではなく分家の人間であることも、無論仕入れの大きい人間ではないことも彼女は知っている。そんな話はこの二年間カフエで話し切っていた。それでも彼女が頷いた、そのことが俺の胸に形容し難い光を差していた。
「宮本様」
 つと顔を上げた冬子の瞳は活動写真の折りに見せたものと同じ潤みを帯びていて、今度こそ俺たちは口づけを交わした。それはほんの躊躇い程度の触れあいであったが、俺たちの間にもたらされた幸福は計り知れなかった。俺たちは互いに顔を真っ赤に染めながらもう一度口づけをした。


 翌々日、俺は冬子の父と会う約束を取り付けた。晦日の忙しさを避けて月が変わるのを待ったのである。二日の間俺は冬子の元へ通ったが、彼女は日に日に美しさを増すようだった。最早冬子は少女と大人の狭間などには居ない 。若い瑞々しさを湛えつつもその蕾は開ききり、大輪の華となっていた。他の客どもも変化に気づいているらしく、古参の老翁などは問いただしてからかう始末である。必然として彼らの耳に俺の名前が入るわけで、看板娘を奪っていく男への視線は冷たかった。福澤は一度も店に姿を現さなかった。
 表へ出ると運動家が演説していた。このところの欧化の影響で男女平等だ、普通選挙だと話して回る人間が多い。彼らの大元には憲政会やら友愛会やらの政党がいるらしいがそのうちに収まるのだろう。冬子と出会った頃には活発に運動していた新婦人協会を、この頃はすっかり見なくなったのと同じように。それでも今は彼らの叫ぶ自由恋愛というやつに賛成票を一つ投げてやるのも悪くはないと思っている。新時代とやらも悪くはない。
「宮本雅清」
 振り向くと福澤が立っていた。以前より幾分痩せたその男は仁王立ちして俺を睨みつけた。
「貴様、冬子さんに結婚を申し込んだそうだな」
 その話を知っているということは俺の居ないうちにカフエには来ていたのかもしれない。声には若干の震えがみられるが、その立ち様には堂々たる物があった。
「それが貴方に何か関係がありますか」
 それだけ言って背を向ける。福澤と話すことなど俺にはなにもなかったのである。それよりも俺はいよいよ明日に迫った冬子の父親への挨拶で頭がいっぱいであったし、彼の仁王立ちにはどこか不気味なものがあったから関わることなくやり過ごしたかった。後ろから福澤が悪態をつくのが聞こえたが俺はそのまま歩き去った。
 いよいよ訪れた九月の一日は風の強い日だった。昼に約束をつけた俺は正午前にカフエに向かうべく長屋を出た。足取りは重くも軽くもなく、武徳大会の日を思わせる調子の良さだ。カフエの前で一呼吸つく。約束の時間までは本当に後僅かというところだろう。不意に体が揺れた。緊張のせいだろうか、酒でも浴びたかのように天地が定まらない。違う、これは俺が揺れているのではない。
「地震だ!」
 誰かの叫び声を皮切りにあちこちで悲鳴があがる。しかしそれをかき消すように大地が吼え、降伏するように誰もが地に伏せた。地響き、というものを聞いたのは初めてのことだった。それは響きとも唸りともつかない大地の怒りで、俺たちはただひたすらに神が降りてきて優しく世界をなだめてくれるのを待つしかなかった。吼え声の合間に街中が歪む音がする。建物が軋んでいるのだと気づき俺は反射的に立ち上がった。途端に横から殴られたような衝撃に体が傾ぐ。倒れる間もなく逆向きの斥力にぶつかって脳が揺れた。左右から襲い来る見えない嵐を食らいながら俺はカフエへと転がり込んだ。
 店内は散々たる状態だった。椅子も机もまともに立っている物はなく、そこかしこに転がる陶器の破片が手をつく場所すらも奪っている。ようやく揺れが落ち着きを見せ、その隙を突いて俺は声を張り上げた。
「店が崩れるぞ! 外へ出ろ!」
 一瞬のうちにひやりとした空気が店内を支配するのが戸口の俺にも察せられた。しかし床の危うさを気にしてか、一歩目を踏む者がいない。苛立った俺はまず冬子を店外へ導くべく店内を無造作に駆けてみせた。店の片隅でふるえる彼女の手を掴んで身を返したその時、木製の柱が悲鳴をあげた。
 ぎ、ぎ、と骨が軋むように泣き始めたのは店の中央に立つ太い主柱で、それが折れるのと店がただの瓦礫の山と化すのはほぼ同時であろう。我先と一つしかない扉へと客が殺到する。団子になった人たちが詰まってか中々人が進まない。店の奥からは焦げ臭いものまで漂い始め、店内は一層混乱状態となった。舌打ち一つで俺は椅子を一脚掴むと木製の壁に叩きつけた。柱のすすり泣きを上回る音量に店内が一瞬のうちに静まりかえる。
「雅清様……?」
 呆然とする冬子に笑みを投げると再び壁に椅子を叩きつける。二度三度と叩きつけると椅子は粉々になったが、壁にもひびが入った。次の椅子を手に取ることもなく俺は壁を蹴破った。歓声とも悲鳴ともつかない声を浴びながら冬子を外へ出すと他の客を呼ぶ。
 外へ出てみると無惨な光景が広がっていた。見える範囲は軒並み半壊してどこに何があったかも判ぜない状態で、加えてまたあちらこちらから煙が上がっている。食事時にあれだけ揺れれば当然のことであるがこれだけ燃焼材が乱在する中で燃え上がればただ事では済まない。
 じわじわと上がる気温とは無関係に全身を汗が濡らす。火が回れば全員が蒸し焼きに終わることとなってしまう。早々にこの場を離れる必要があった。方角の目印を探して土煙の中で目を凝らす。
 一際高くそびえる影は凌雲閣か。冬子の手を引くと大声で目的を告げ、後は次第に悪くなる視界を圧して凌雲閣を目指した。瓦礫の山を踏む度に後ろへ叫ぶうち喉は潰れていったが構っていられない。ようやくたどり着いた建物を見て俺たちはしかし何も言えなかった。建物の上半分が崩れ落ち、浅草の文化の象徴は自然の力の前に頭を垂れる形となって崩落していた。幸いに火の手は上がっておらず、カフエからの行軍をしてきた者はみな一様に崩れ落ちた。
 冬子と初めて口づけを交わした思い出の場所は崩れた上階の瓦礫置場となり、ひょっとすると俺たちが活動写真を観た階とも知れなかった。まさに文明の崩壊を目の当たりにし俺は動けなかった。消火活動に行かねばとは思いつつも足は動かない。俺は燃える東京府をただ呆然と見ていた。


 翌日に届いた書簡には叔父清明から、震災によって道場が傾いたから道場まで出向いて雑事をこなせとの直々の命令文が書かれていた。つまりは一時的に浅草を離れなければならない。勿論宗家からの命令に逆らえるはずもなく此度も俺は瓦礫の山を越えて行かなければならなかった。
「気を付けてくださいね。まだどこも危なく御座いますから」
 冬子は俺の手を握りながら涙を浮かべた。彼女こそ生家が潰れたうえに商売の店もなくなっては生きるに耐え難いはずである。そのうえ頼みにするはずの男は本家へと出向せねばならないときては、その寂しさたるや推して測りえないものだろう。俺は最低限の旅費の他は全て彼女に与え、兎に角早く帰ってくることを約束して浅草を発った。
 宗家のある藤沢は東京府と全く別の壊れ方をしていた。崩落よりも火事によって焼け野原となった様子の目立つ内陸と違い、沿岸部であるがために波に打ち壊された家屋が多い。宗家の邸宅や道場も大きく被害を受けたようで、いつになく慌ただしい様子をみせていた。
 先に戻っていた母の指示に従ってあれこれと動いたが、俺の仕事の大半は道場や家のことではなく地域復興への手伝いであった。鎌倉幕府に源流を持つ家柄としてはこの土地の惨事に手を拱いているわけにはいかないらしいが、なにせ俺は浅草に住んでいる時間の方が長いものだから一刻も早く冬子の元へ帰りたくてたまらない。俺に東京府への帰還が認められたときには九月も終わろうかという時分になっていた。
 揚々と浅草へ駆けた俺をまず驚かせたのは凌雲閣だった。もっと正確には凌雲閣が解体されたという事実だ。雲をも凌ぐと言われた文化の柱は最早瓦礫の山となり果て、まるで冬子との思い出すらも奪われたような虚無感に襲われる。俺と彼女の始まりは確かにここだったのだ。冬子はどんな思いで解体を聞いたのだろう。もう彼女を一人になどしてはいけない。次に宗家から呼び出される時にはもう俺たちは夫婦であろうからその時は連れていけばよいのだ。
 兎にも角にも冬子に会わんと思いカフエの在った場所へ行ってみる。しかし当然そこには何もなく、俺はすっかり困ってしまった。
「ちょっとすみません、この辺りにあったカフエの持ち主は今どちらにいるかご存じでしょうか」
 手近に居た 者を捕まえて尋ねてみるが知らないと言う。仕方ないので近くの者を端から当たってみると以前にカフエの二軒隣に住んでいたという老婆が恐ろしいことを口にした。
「あぁ、その家族なら娘の結婚に合わせて引っ越していきましたよ」
 氷の矢にでも射抜かれたような気分だった。冬子が俺を於いて結婚するなどありないと老婆に掴みかかりかけていやと思い直す。そうともあり得ないことだ。きっとこの老婆の勘違いに決まっている。
「もしかして、宮本雅清様でしょうか」
 しかし一瞬青ざめた顔を見た老婆は俺がどういう立場かを察したのだろう、そう尋ねると彼女は俺に冬子から預かったという手紙を差し出した。茶封筒に書かれた俺の名は確かに冬子の手に因るものに違いなく、そこから導かれる結論に目眩がした。
 老婆に礼を告げて少しく離れた瓦礫に腰を下ろし、封筒入っていた幾枚かの薄桃色の便箋を広げる。
『雅清様。私は幾つか謝らなければなりません。まずこの文が雅清様を傷つけると知りながらも残さずにはいられなかった心の弱さをどうぞお赦しください。私が唯一赦して頂こうと願うを赦されるとすればこの一点のみに御座います。後のことは全て私が悪いこと故御赦しを請うような恥知らずの真似は一切いたしません。
 私は福澤様と結婚することになりました。私が福澤様に嫁げば店の資金を援助してくださる、雅清様が浅草を離れて一週間が経ちました頃に福澤様が父にそう仰られたのです。勿論当面の生活も家族親戚皆々に至るまで全て見てくださると。
 正直に申し上げましてこれは大変魅力的な御申し出で御座いました。此度の地震で東京府中の親族が路頭に迷う寸前に追い込まれ誰も彼もが危機に瀕しておりましたから。
 だけどどうか、どうかきっと誤解なさらないでください。私は金銭に目が眩んだのではないのです。これもまた偏に愛情の為せることなのです。私は父母に雅清様のことを言い出すことが出来ませんでした。それこそきっと私の犯した最大の罪と存じますけれど福澤様がそう御申し出くださった時の父の、母の顔を見るとどうしても言い出せなかったので御座います。雅清様ももし御覧になることが出来ましたらば私の不貞も幾らか御解りいただけると思います。
 勿論、決して赦されることではありません。私は如何なる御言葉も甘んじて受ける所存で御座います。しかし父母には罪のないことです。全ては私の弱心と卑怯のせいです。どうか、私より他に何方のことも御恨みなさらぬよう御願いいたします。
 本当に、本当に心より御慕い申し上げております。雅清様のいらっしゃらない日々を思うと今から胸が張り裂けてしまいそうです。もし私が死ぬようなことがあればそれは雅清様を失った悲しみ故で御座います。どうか行方は御探しにならないでください。そこに私は居ないかもしれません。雅清様にその悲しみを持たせないことだけが私に出来る唯一のことで御座いますので。
 それではいつまでも御元気で。冬子』
 結婚の二文字を聞いたときに福澤が思い浮かばなかったわけではなかった。しかしあの男は俺と冬子が私的に婚約していることを知っていたではないか。それなのに金銭を頼みにして周囲を固め、冬子の心に関わらず否と言えない状況を作り上げたのではないか。何も冬子の弱心が原因ではない。福澤の姦計が彼女を追い込んだのだ。
 日も落ちないまま避難所の寝床に潜り込むと夢を見た。白い華の渦に埋もれていく夢だ。昔まだ実家にいた頃に買っていた猫が死んだ。道場に納められた百合の華を食ったせいだ。可憐で清純の象徴たる百合に毒があることを俺はその時初めて知ったのだ。冷たい猫を抱いて以来俺は幾度もこの夢を見る。
 冷や汗に脅されて身を起こすと遠くで演説が始まった。政府を称えるものだ。帝都復興院が東京府の復興計画を定めるのだと。それが何だという。帝国が俺たちに何をしてくれたと言うんだ。彼らが一律に支援することを早急に打ち出していれば冬子は財閥の男を頼らずに済んだかもしれない。何が帝国だ。何が新時代だ。そんなものは政府が掲げた理想でしかない。俺たちは与えられた甘い匂いに麻痺してその実を見失ってはいないか。
 この国は百合だ。一見すれば美しく清らかな国だ。だがそれは華の話であって群飛ぶ蝶にとってのことだ。俺たちのように地べたに居る者の前にあるのは毒をはらんだ根だけで、華を思わせる匂いに誘われて食んだ者はゆったりと痺れて死んでいく。
 俺たち猫を誘うその匂いこそが新時代というやつなのだ。平塚も犬養も嘘つきだ。新聞は官の手先だ。彼らの掲げた新時代がどこにある。男女平等も自由恋愛も皆まやかしに過ぎないのだ。
「冬子さん」
 ふと名前を呼んでみる。同じ夢を見た愛しい人の名を。だが彼女はもうこの町の何処にもいない。思い出の痕跡さえもない。それどころか彼女の手紙を信じるならばこの世の何処にもいないかもしれないのだ。天災だと諦めることが誰にできようか。そう拳を握りしめてみても、声も匂いもない数枚の紙片だけが俺に残された冬子の全てだった。

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