背信亡食

Novel
「兄サマ……」
 真道悠希は兄の胸元にしなだれかかって甘く囁いた。よく知った肌の匂いに目を細めながら指を這わせると、頭の上で吐息が漏れる。狭いベッドの中には離れる余地もなく、冷房が機能しているとはいえ二つの肉体は汗ばんでいた。長く伸ばした黒髪を撫でられるのを悠希は好んだ。その指に梳かれるのが愛おしいばかりに伸ばし続けた漆黒の絹は腰程までに達し、彼女の密やかな誇りにさえなっていた。今宵もまた柔らかな手つきに身を委ねながら、ゆっくりと瞳を閉じた。


 二年前に母絵里香が病で亡くなってから、真道家の食事は悠希によって取り仕切られている。彼女は勤めのある父と長兄の悠一のために早朝から朝食と弁当を拵え、それから自らの高校への通学準備を進めながら、出社する二人の世話を焼く。
「父さん、今日は雨ですから傘を持ってくださいね!」
「二人ともまたお弁当を忘れてませんか!」
 どこか抜けたところのある男二人は悠希によってあれこれと助けられてようやく家を後にするのである。快活で世話上手な悠希は絵里香によく似ており、彼女の死後はその穴を埋めるかのように家の中心となってあれやこれやと働くようになった。それでも学業を怠るでもなく運動こそ人並みだが成績は良好で、背が高くすらりと伸びた肢体だけでなく、面倒見の良さと優れた人柄が自然と学校でも人を引きつけていた。
 一通りの支度を済ませた後で、悠希はもう一人の兄の部屋を覗いた。月曜の朝というのにまだ電気すら点いていない暗がり中に、微かに膨らんだ影が見える。今日も彼はそこから動かないつもりなのであろう。二年前に母が亡くなった頃から部屋に籠りきり、高校にも進まなかった双子の兄は毎朝自分に起こされるのを待っている。彼が頼り甘えられる相手は他ならぬ自分しかいないことを悠希は理解していた。それは生まれた時からずっと一緒だったがために、二人が世の例に洩れず心的な繋がりを強く持っていたことと当然ながら無関係ではない。
「ハルカ兄」
 呼びかけても返事をしないのは近づくのを待っているときだということも悠希はよく知っていた。もう一度名前を呼びながらベッドの脇まで寄り、その背中に触れようとしたところでようやく言葉を返された。
「二人はもう行ったんだろ」
 語調の鋭さとは裏腹に高く柔らかな声質は悠希のそれとほぼ一致して、少女と聞き紛うほどであった。答えを求めているわけではない問いかけに戸惑っている少女の手首を影が捕らえる。十七の少年にしては華奢で小柄な悠佳の引き寄せる力がさほど強かったわけではないが、抗う術を知らないままに倒れ込み、言葉を紡ぐより速く唇は塞がれてしまった。声になれなかった糸玉をこぼしたような音と息だけが漏れ出て、部屋の静寂に転がった。
「もうっ……私、学校が……」
 切れ切れに抗議をする半身を見つめながら悠佳は軽んじるような笑みを浮かべた。
「ボクと二人のときはなんて呼ぶ約束だったんだ?」
「…………兄様」
 前かがみに布団へ手をついたまま恥じらって顔を伏せる悠希を眺めながら悠佳は満足感と愉悦に浸っていた。いつか不意にそう呼ばれて以来、一つの秘密共有として呼ばせるようになっていた。悠希とまったく同じ顔立ちの少年は美しく顔を歪め、明るく華やかな妹とは対照的に同じ顔でありながら暗く冷たい色合いを呈している。伏せた顔をあげさせるために顎の下に手を差し入れると、そのまま引き寄せて再び唇を奪う。抵抗しないことを十分に理解していた少年は存分にその甘く柔らかな花弁を弄び、少し噛んでからまた嗤った。
「学校、行くの?」
「当たり前ですっ」
 頬を朱に染めたまま起き上がった彼女の手首を今度は掴みはしなかった。代わりに先ほどとは打って変わった柔和な笑みを浮かべて手を振る。
「夜はコロッケが食べたい」
 呼びかけたというよりはただ漏らしただけの兄の言葉に、悠希は淡く微笑んで見せた。
「わかってますわ」
 軽やかに歩き去る妹の背中を見送ってから悠佳は微かに残る唾液の甘味を求めてそっと唇を舐めた。舌に馴染むその蜜は彼自身のものとさして違いのあるものではなかったが、あるいはそれ故にか悠佳は悠希の唾液を好んだ。彼らが週に二度交わす密通で、悠佳が最も好んだのが唇を重ねることだった。
 悠佳は学校に行くのを止めただけで学問を捨てたわけではなかった。最も本当のことを言えば、悠希が行っているなら自分は行かなくてもよい、という気持ちが彼の中に芽生え始めたのがちょうど二年前だったに過ぎず、学校に行くことを止めたのは母の死とまるで関係がなかったのだが、「そういうこと」にしておけばいくらか簡単に自分の行動を受容してもらえることを彼は理解していた。学校に行き人付き合いすることは悠希に任せ、悠佳自身は自宅で勉学に勤しんでいたため、知識や教養という点では既に他の同い年の若者に比べて随分秀でたものを身につけており、悠希との交じらいの前には彼女に勉強を教え、悠希が日常について寝物語にすることは一つの決まりごとであった。
 悠佳はこの穏やかな日常を愛していた。父親や悠一との仲も進学を断った当時に比べれば良好で、精神と肉体は悠希によって満たされている。幼少期から戯れに妹と交わしていた口づけをいつから熱を籠めて行うようになったのかは覚えていないが、それほど悠希は悠佳にとって自然な存在であったというだけで、その熱情が精神から身体の交わりへと移行したのもまた当然のことであり、世間に疎いとは言え妹との密通がありふれたことではないと自覚しつつも、自分たちに限っては当然のことなのだと彼は信じて疑っていなかった。

 夕飯は悠佳の希望通りにコロッケで、食卓には四人が揃っていた。ここでもやはり中心となって会話を回しているのは悠希で、彼女の存在が真道家の核であることがうかがえる。こうして四人が顔を合わせてみると悠佳と悠希は決して仲の良すぎる兄妹ではなかった。もちろん、一般的な家庭における兄妹仲よりは随分良いに違いないが、父敏明や悠一の眼から見て心配になるような熱を持った関係性はまるで見えてこない。
「悠一兄サン、おかわりはいりますか?」
 細やかな気遣いは悠希のものであったから、悠佳は何にも頓着せずに自らの食事を進めていく。そのため、敏明を含めた周囲の眼には、彼らはまるで性格の違う双子に見えていた。姿かたちこそひどく似通っているが、その中身はまるで重なるところを知らず、むしろ仲が良いことが驚くほどで、そういった意味ではなにか奇妙な、不気味な思いを抱かなでもなかった。しかし敏明は元々自らがそういう無頓着な性質を持っていることを自覚していたため、悠佳には自分の、悠希には妻の中身が遺伝したのだろうとやはり大きく頓着はしなかったのである。
「悠希、俺は明後日は出張だから帰らないって言ってたっけか」
 白米の盛られた茶碗を受け取りながら悠一が尋ねると、悠希は少し思案する素振りを見せる。彼女は六つ離れた兄の悠一に対してはむしろ少しの距離を置いているように見えた。彼女が話しかけるときにはいたって普通であるものを、悠一から言葉をかけると途端にいつもの明瞭さが身を潜め、斜めに視線を逃がしながら妙齢の乙女らしい恥じらいを見せるのである。しかしこれは娘の思春期を示すものとして敏明に好意的に受けとられていた。双子の兄に対する気安さから男性への意識を失ってしまうことを恐れていた父にとっては喜ばしいことである。
「えぇ、たしかに聞いてますわ。気をつけてくださいね」
 にっこりと微笑んだ彼女は悠佳に差し出されたコップを受け取ってお茶を飲むと、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらカレンダーへと駆けり赤で『悠一、出張』と書きつけた。
「悠希、その日は父さんも飲み会で遅くなるから夕飯は要らないよ。すまないね」
 父の声を受けて赤文字を増やし、カレンダーを見据えてうんうんと少し唸った後に振り返ると悠佳に夕飯の希望を尋ねた。
「「コロッケ」」
 やっぱりね、と笑って軽く口笛を吹く。それは思考を読んだのでも過去の分析でもなく、ただ悠希もコロッケを食べたかっただけだった。

「頼んだよ、悠希」
 心配性な兄の言葉を悠希はいつもぼんやりと聞いていた。自分が頼られている喜びと、くすぐったさと、心配性で世話焼きな優しい兄の眼差しの眩しさに慣れず、悪いとは思いつつも視線を合わせることができない。それでも笑って許してくれる彼が、悠希は大好きだった。

 悠一が出張から帰ってきたのは二十四時を回って金曜の午前二時だった。寝静まっているだろうという予想に反して窓からは明かりが漏れ、ドアを開いた彼をやけに甘ったるい家の香りと明るい声が出迎えた。
「おかえりなさい、悠一兄さん」
「……ただいま」
 少し驚いて言葉の遅れた悠一は出迎えの脇をすり抜けてリビングへと入る。テーブルの上にはラップをかけた角煮が残されている。夕食の残りにしてはやけに多いその量に悠一は眉をひそめた。
「父さんは?」
「飲み過ぎちゃったから今日は同僚の家に泊まるって連絡がありました。兄さんは、夕飯はもう済んでいますか?」
 余り過ぎた角煮の処理に困っているのか背中越しにそう尋ねてくるのに対し、無言で手を振って悠一は自室へと入っていく。出張の疲れが溜まっていて、何かを考えられる状態ではなかったため、妹の顔も見ずに眠ることを申し訳なくも自分に許していた。一晩眠ればすっきりするだろうと、スーツをハンガーラックにかけてから、部屋着も着ずにベッドへと潜り込むのだった。

「兄サン、起きてください、もう朝ですよ」
 耳朶を打つ声にとろとろと眉を押し上げると目の前には見慣れた妹の顔があった。寝ていないのだろうか、瞼を腫らした彼女の顔はどこか少し細くなったように見える。ぼんやりと手を伸ばして髪に触れると滑らかな指通りが彼の心を落ち着かせた。朝食はあの角煮だろうかと胡乱げに考えていると見透かしたように悠希は言う。
「あの角煮、冷蔵庫にしまい忘れちゃったので悪くなっているかもしれないから捨てちゃいました。ごめんなさいね」
 そうか、とつぶやいてまた髪を撫ぜると、いつまで触っているんですかと怒られてしまった。少しずつはっきりしてきた頭を上げて身を起こすと、不意に近づいた彼に頬を染めて、悠希は足早に部屋を出て行った。夜に比べて早く過ぎて行ってしまう朝の時間に逃げられまいと悠一も急ぎ足で洗面所へと向かうのだった。
 その日の夕飯はロースカツで、一口食べてから悠一は首を傾げた。
「なぁ、悠希、このカツ……」
「やっぱり、ちょっと味を強くし過ぎてしまったかしら。気になりますか?」
 ぎこちない微笑みに、彼女は疲れているのかもしれないと、悠一は黙ることにした。一口食べただけでそれとわかることさえも曖昧に誤魔化そうとする理由は他に見当たらなかった。机の上には依然山盛りのカツが積まれているのを見て、昨晩の角煮の余り様になるほどと心で頷く。一つには、何故か今日も帰宅しないらしい敏明の不在もあるのだが、それにしても四人家族には過多な夕飯量は彼女の心労の量を示しているように思えた。母親不在の二年間を担ってきた疲れがここにきて噴出したのかもしれないと、悠一は不甲斐ない自分を顧みながら思う。
「なあ悠佳、悠希、明日は休日だし焼肉でも食べに行こうか。たまには俺が奢ってやろう!」
 柄になく精一杯明るい声を出してみたものの、相変わらず悠佳は無愛想、悠希は一層青ざめたように震えていた。それどころか耐えきれなくなったのか急に席を立つと、驚く悠一を尻目にトイレに駆け込んだ。断続的な嗚咽と水に何かの落ちる音は胃の内容物を吐き出していることを伝え、悠一の顔からも僅かに血の気が引いていく。一瞬硬直した彼よりも、悠佳のほうが動き始めが早く、そっとトイレの戸を開けて座り込む妹の背中をさすり始めた。ほどなくして身の震えが収まった悠希を連れて席に戻った悠佳は兄に向けて珍しく微笑んで見せた。
「実は、明日は焼肉をやろうと思ってて、もう肉を用意してあるんだ。ちょっと内臓系が多いけど、兄さんは臓物平気な人だっけ」
 別に平気だけど、と答えながら悠一の意識は悠希に注がれていた。突然の嘔吐を意に介していないような弟の無神経さに腹がたっていたが、それを叱るのは妹の前ではいけないような気がして着地点を失った感情を持て余す。こんなときに、父親か、母親がいてくれればいいのにと少しだけ恨めしい気持ちをぶつけてみる。
「父さん、明日は帰ってくるといいな」
 まだ気分の悪そうな悠希を弟の手からさらい、部屋に戻すべく立ち上がらせた。近くで見ると今朝より一層やつれた顔は依然蒼白で、彼に向けた目はどこか縋り付くような色を帯びている。
「兄サン、ごめんなさい……」
 何に対してかもわからない謝罪を漏らして悠希は力なく歩き始めた。にこやかな悠佳の視線を背中に感じながら悠一は妹に寄り添って食卓を後にした。

 今晩は悠希がこないだろうと悠佳は一人ベッドに横たわっていた。悠希があれほど激しく動揺するとは思わなかったが、それでも悠一に勘付かれていない様子に悠佳はかなり満足していた。彼の帰らなかった水曜の晩に何があったかなど思いもよらないに違いなく、このまま密やかにことが完遂するのを悠佳はただ待つだけでよかった。他の誰も知りえない秘密を持つことを悠佳はどこかでずっと待っていた。そうして初めて、妹と本当の意味で一つになれるのだと彼は信じていたのである。
顔の造りも、声も体格も示し合わせたように同じ妹をしかし彼は愛していなかった。彼にとって悠希は異性愛の対象ではなく自己愛の対象と呼ぶ方が相応しい存在になっていたのである。悠佳にとって悠希は自らを映し出す半身などではなく、輔弼し合うべき同体であり、悠佳であるか悠希であるかは最早問題ではなく、二つの肉体と二つの精神は一つに還るべき宿命を帯びているとさえ思われた。だから彼が悠希と行う姦淫は新たな命を育む人為的なものというよりも、一つの命へと還る超自然の儀式めいた意味を持ち、神聖な魂の所作として執り行われるものだったとのである。そういった意味で、彼は悠希と過ごす夜をこよなく愛していた。
 この先も関係を続けるためであれば、どんな手段も厭わないのだと、一人手を見つめて眠りについた。

 翌朝になっても敏明からは連絡がなく、何とはなしに不吉な心持がして悠一はテレビをつけた。まさに自分の住む町での変死体のニュースが彼をどきりとさせたが、被害者は女性で、バラバラに解体された挙句に髪や爪、眼球などが全て取り除かれておりまだ見つかっていないのだという。そんな凄惨なニュースすらも気にならないほどに、敏明と連絡がとれないことは悠一の心中に暗い影を落としていた。
 飲み物がないと騒ぎ始めた悠佳のためにコンビニとの往復路で悠一は路地裏から見慣れた足がはみでてやいないかと気が気でなく、それがないこともまた一つ彼の心の負担ともなっていた。母親が亡くなってから二年が過ぎ、ようやく家に平穏が満ちつつあった頃の父親の失踪はまだ一日目とはいえ恐ろしい想像を広げるには十分で、もしものことがあった際に養い手となるにはまだ若すぎる悠一が気も漫ろになるのは仕方のないことだった。家が近づくにつれて漂ってきた肉の焼ける香りは、昨日話した焼肉が昼に行われることを伝えてくる。
「昼から焼肉にするとは豪勢だな」
 ただいまの代わりにそう言いながらリビングに入ると、席に居るのは一人だけだった。長い黒髪を弄びながらこちらに気づくとおかえりなさいと微笑む。
「兄さんがそろそろ帰ってくると思って、お肉、焼き始めちゃった。食べましょう?」
 にっこりとした笑顔はとても自然で、まるで今までずっとそうしてきたかのように綺麗な笑みだった。だから、対面した席につきながら悠一は問うべきかを迷っていた。自分が出張から帰ってきてからどこか様子のおかしかった家族を問い詰めるべきなのかと。何かがあったのはきっと間違いないにしても、自分のする最悪の妄想は日頃の二人の様子を見ている限りでは起こりえないことのはずで、空振りに終わることが怖った。それでも、
「悠希は……」
 耐えきれずに声を出す。自分の今最も気にすべき案件はここから聞き始めるのがよいと思ったからだ。あるいは全てがまったく繋がっていなければいいと、そうあって欲しいと願いながら悠一は問いかけた。
「どうしたの、兄さん? レバーとハツがそろそろ焼けますから……」
「悠希は、どこだ?」
 肉の焼けていく不快音と、秒針が走る硬質な響きだけが二人を包んでいた。まっすぐ見つめてそらさない視線を受け止めて、少年はゆっくりと口角を引き上げる。
「なーんで、わかっちゃったかな」
 さらりと髪を撫ぜて顰めた眉の曲線は滑らかで、歪められた口元とは別人のように整えられている。左手で髪の毛を弄びながら、右手の箸は依然として鉄板の肉をつついては転がしている。ちらりとやった視線からは何も読みとれず、悠一を苛立たせた。何故こうも弟が平然と会話を続けていられのだろうかと、不気味に思うとともに悪い予感が実体を持ちつつあることを知って悠一は暑さのせいではない、冷たい汗を背中に感じていた。何かのおふざけなら悠希がそろそろ顔を出してもいい頃合いであるし、悠佳の口振りにもっと悔しそうな響きがあるはずだった。
「結構、準備が大変だったのにな。この鬘だって、」
「質問に答えるんだ。悠希は、どにいる」
 はっきりと、悠佳は冷めた目で兄を見た。その質問にまるで意味などないかのように、なぜと繰り返す幼児を疎むように侮蔑の目で以て彼を見据える。焦げ始めたハツが箸の先でじりじりと鳴き始めてからようやく口を開いた。
「部屋にいるよ」
 顎で指し示したのは悠希の部屋。視線を追って一瞥をしただけで動こうとしない兄に悠佳はおやと眉をあげた。助けにいかないの、と冗談混じりに問う弟に対して悠一もまた驚いた風をして見せた。
「お前が悠希を傷つけるはずがない」
 自身に満ちた表情は彼の神経に少し触れたのか、箸の先で肉が悲鳴をあげた。食べごろをとうに過ぎた肉片たちは段々と炭の塊へと近づいていた。あーあ、と笑ってハツをつまむと悠一へと差し出した。
「もったいないから、食べる?」
 冗談としかとれないような口調と、怜悧な瞳はまるで食い違い、何もかもが冗談では終わらないことを示していた。拒むような悠一の視線に気づいて、全てを知られているのだと理解して初めて、悠佳はバツの悪そうな顔をする。イタズラを咎められた幼い彼がよくした表情に兄は見覚えがあった。彼が幼少のそのときからなんら変わっていないことを知って、悠一は目を伏せた。
「父さんが、僕と悠希をバラバラにしようとしたんだ。でも、そんなことできるわけないでしょう? 僕と悠希を引き離すなんてどうかしてるよ。悠希と仲がいいもんだから僕に嫉妬したのかなぁ。でも大丈夫。僕たちは、ちゃんと、一つになれた」
「悠希はお前のものじゃない」
 怒気をはらんだ言葉を知っているとばかりに軽くいなして悠佳はハツをつまみ上げて口に運んだ。皿から肉を鉄板に追加するとまたじゅうじゅうと音を立てて細い煙をあげる。その煙を見るだけで悠一は気分の悪くなる思いだったが、気にすることもなく悠佳は焼き肉を続けていた。
「兄さん、そんなのは当然じゃないか。悠希は僕なんだから。僕たちは二人で一つなんだからお互いに所有なんてできないよ。悠希も僕も本当はどちらでも関係がないんだからさ」
嬉々として悠希との同一性を語る悠佳に悠一は怒気を通り越して凍殺すように静かな目を向けた。双子には同調性が高すぎるが故に起きる精神問題があるという。相手が思考を共有してると思いこんで同意を得たつもりになったりと、結びつきの強さを過信するあまりに相手の尊厳を見失うようなものばかりだ。悠佳のそれは、最早結びつきを越えて境界を失っていた。精神ばかりでなく肉体も共有しているように思いこみ、自分が悠佳であるということも半ば意識から失われつつあるようだった。それ故に悠佳は言う。悠希は僕のものではない、と。
「悠佳、お前は俺の言った意味がわかっていないようだな」
 怒りでくらくらする額に手を当てて悠一は声を絞り出す。あまりに身勝手な言い分に自身を抑えておくことすらも困難に思われたが、努めて冷静に話そうとした。
「いいか、悠希はお前のものじゃないましてやお前ではない。あいつは、悠希は俺の、ものだ」
 からからと笑っていた悠佳の表情が初めて凍り付いた。兄の言葉の意味を確かめるように鉄板から拾い上げたモツを咀嚼する。弾性に富むあまりに噛みきれないでいるうちにようやく理解が追いついたのか、突拍子もないことをとまた笑い始めた。
「週に二度、月曜と金曜だろ」
 ふらりと立ち上がって悠一は言った。
「あとの5日は、どこにいるんだろうなぁ」
 言わんとすることを理解して今度こそ悠佳の笑みが止まった。鉄板の上で肉片が痛い程に泣き声をあげる。机を迂回して悠佳の隣に立つとその髪を掻きあげて悠一はにっこりと微笑んだ。
「それとな、悠佳。困ったことに、俺の給料じゃ二人を養うのは難しいんだ。どうだろう、悠希と一つになるっていうのは」
 依然として優しく微笑む悠一に初めて悠佳は恐怖を感じた。自分が当然と思うものがあるように、兄にもまるで意に介さない一線があるのだと気づいたときにはもう手遅れだった。椅子に座ったままの彼と、上背もあり立っている悠一の力関係は明らかだった。
「ちょうどお前が教えてくれたんだ。ありがとう、悠佳。うまくいけば、望み通り悠希と一つになれるよ。よかったね」
 悠佳はまるで返事をせず、肉の焼ける音だけが部屋に響いていた。強く、鈍く、響いていた。


「悠希、おいで。お昼にしよう」
 愛しい妹を呼びながら悠一は付け加えた。

「肉はたくさんあるから、遠慮しなくていいからな」

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