白花の夏

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「チョコバナナ、チョコ抜きで」
 背後から聞こえた声に足が止まる。リフレインのように記憶の奥底からその突飛な台詞が一字一句違わずに自分に呼びかけてくる。現実に自分を取り囲む歓声と煙と、遙かな夏のにおいとが交差して、俺は身を返した。


 雪駄が砂利を踏んでざりっと音をたてた。その音を楽しむように深緑の浴衣姿の少年はテンポを上げて歩いていく。山間に位置する小さな神社の納涼祭は、その目的と反すように熱気を集めていた。
「シュウくん、まってよー!」
 彼を追いかける細い声はごった返す人並みに阻まれて届かないのか、少年に歩調を緩める気配はない。右に左に溢れる浴衣の人間たち、そのさらに両脇を固める屋台へとゆっくり視線を巡らせてからようやく彼は首を後ろへ向けた。
「おーい!    ー! おそいぞー!」
 そう呼ばれた紺地の浴衣の少女は不満げに頬を染めながら小走りに寄ってくる。彼女の腕の中にはたこやき焼きそばお好み焼き、唐揚げにホルモンじゃがバターと屋台を端からなめ尽くすようにして集めた食料が山となっていた。その総量は到底二人で食べ尽くせるものではない。
「お前…どんだけ食べるんだよ……」
 呆れたように吐かれたため息を華麗にスルーして、少女はまた一つ屋台に目をつける。
「シュウくん、チョコバナナ、チョコ抜きで」
 満面の笑みで告げられたしかし奇妙な台詞に少年は首を捻った。それはもうただのバナナでしかない。屋台の親父も同じく怪訝な表情を浮かべながら、串刺しのバナナを紙コップに入れて少年に渡す。
「がんばれよ、少年」
 後ろに控える少女を見てか、赤ら顔の親父はにっと笑ってささやいた。意味をとりかねてきょとんとする少年ににやついて、親父はバナナをもう一串サービスで追加すると、また人の良さそうなそれでいて意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほらよ」
 少年は少女の腕の中に紙コップを押し込むと、代わりに色気のないビニール袋を引き抜いて歩き出す。十数歩進んだところで、追いかけてきたアナウンスの電子音声が、無造作に詰め込まれたプラスチックのケースがたてる音をかき消すように響いた。
「――子供盆踊りに参加されるお子さんは、広場へお集まりださい。繰り返します、子供盆踊りに参加されるお子さんは――」
 少年は呆れたように肩を竦めると少女を振り返る。
「子供ぼんおどりなんてかっこわるいもん、誰が出るんだよ、なぁ?」
「ぼんおどり、はじまっちゃうんだ…」
 少年の問いかけには答えずにぼうっとした様子で呟いた彼女を見、少年は言いしれぬ違和感を覚えた。今まで一緒にいた少女の薄い膜を隔てた向こうにいるような、水の中にいるように輪郭の揺れる気配。自分と違うナニカを見ているように彼方へ向かう真っ直ぐな眼差し。たまらず、手を伸ばす。
「シュウくん!」
 不意に戻ってきた視線に慌てて手を引っ込める。少女はそんな動揺に気づきもせずに晴れやかに笑った。
「食べよう! わたし、おなかすいちゃった!」
 脇をすり抜けて駆けていく少女の紺色の背中に咲いた艶やかな白百合が、この世のものとも思えず怪しく光っている。微かに過ぎる暗い影を払うように軽く頭を振り、少年はその後を追った。
 人に溢れた飲食コーナーの隅に腰を落ち着けると、少女はいそいそとビニール袋を開き食品を取り出していく。外見以上の量に目を見張る少年を余所にプラスチックケースは次々と空けられ、彼を更に驚かせた。
「シュウくんも食べなよ、ほら!」
 目の前に差し出されたたこ焼きを反射的に頬張るも、咀嚼の間にその容器も空になる。大袋いっぱいに詰められていた食料の大半が少女の胃袋に消えるまでにそう時間はかからなかった。ラムネを飲み干して口元のソースを拭うと、少女はバナナの入った紙コップを掴んで立ち上がった。
「じゃあ、行こっか」
「どこに?」
 きょとんとする少年に少女は告げる。
「ぼんおどりを見に、だよ」
 再び輪郭が歪んだ。水中で少女が微笑む。おいでおいで、と動く手に誘われて少年もまた立ち上がる。
 先ほどまでとは逆に少女の背中を追う。最初こそ雰囲気にのまれていたものの、雪駄の踏むものが砂利から土に変わり、それが更に木の根に変わり始め、遂に少年は声をかけた。
「おい、どこまで行くんだよ、   」
 振り向いた少女は依然として水の中。
「もうちょっと」
 口元に指を当てて微笑む姿に少年は言葉を失い、大人しく林の中を着いていく。それから数分歩くと、急に視界が広がった。そこは、林の中にぽっかりと空いた円形の広場だった。中央には大きな岩が置かれ、円の縁には白く小さな花が囲むように咲いている。一つ手折ってみると、五枚の花弁が均等に並んでおり、その整った様がかえって不気味に感じられた。二人は林の中から広場を覗きこむような位置で立ち止まっていた。
「ほら、間に合ったよ」
 少女は嬉しそうに串刺しの果物を頬張りながら言うが、少年には何に間に合ったのかさっぱりわからない。彼女が見つめる彼方には、なにかがあるのだろうかと瞬きを返した少年に、少女はもう一本の串を差し出した。
「おいで」
 おいで、という言葉の意味は捉えかねたが、好奇心が彼を動かした。彼女が見ているなにか、きっとこれがそのなにかに繋がるものに違いないという確信があったからだ。串を受け取り、その白い果物を、口に含む。
 浸水したような冷たい感覚に少年は思わず咀嚼を止めた。それが、確かに今彼女のいる膜の向こうへと突き抜けたのだという実感に変わると少年は夢中に頬張った。俯いて裾を探ってみても当然濡れてはいない。それでも、少年はわかっていた。
(これは、ここは水の中だ)
 下げた視線の先で、白い五枚花弁が揺れた。足下に風は感じない。そこで初めて、顔をあげた。
「わぁっ……!」
 広場のそこかしこにはいつの間にか青白い炎が浮いていた。そしてそこにひしめく無数の白い骨、骨、骨。炎の間を縫って広場を埋めるそれらは皆骸骨であった。立ち並ぶ骸骨の中から棍棒のように骨を両の手に持った者が中央の岩へ歩み寄り、大きく振りかぶるのを、非現実との遭遇が引き起こす一種の思考停止の中で少年は最初の一言きり声もなく見つめていた。
  ――――かーーーん
 その大きな一音が骸骨たちに浸透していくにつれ、波紋のようにざわめきが広がっていく。次いでカカカッ、と連続音が鳴った後、骸骨たちの動きが整い始める。岩を叩く骨の音に呼応するように骸骨が、また骸骨の動きに合わせるように音が互いに不器用に寄り添い、その中間点でちょうど重なった瞬間、少年の脳裏に言葉が浮かぶ。
「ぼんおどり……?」
 隣で少女がこくこくと嬉しそうに頷くのを確認し、少年はまじまじと眼前で行われている奇妙な盆踊りを眺めてみた。
 およそ上手とは言い難い硬い動きと、それに合わせにいってはリズムを乱す不規則な拍子。提灯のように灯されているのは人魂であろうか。月明かりに照らされた骸骨に表情などないはずなのに、少年の目は彼らを楽しそう、と認識していた。
 上手な個体を先頭にゆるゆると列をなして広場の縁に沿って骸骨たちが踊り歩き出す。手の振りや足の運びはぎこちないながらも盆踊りになっており、徐々にそれは形になってきているようだった。
 行列の先頭が二人の前にさしかかったとき、骸骨の頭が彼らの方へ曲がった。少年はその窪みと、目があったような錯覚に囚われ見つめ返す。
「大丈夫だよ、向こうからは見えないはずだから」
 そっと少女が囁くが、少年は確かにその深い暗い闇に見つめられているようで、顔を動かせない。
「上手いね」
 口を告いで出た言葉に少年自身も驚く間に、骸骨は笑った。顎の骨は微動だにせず、眼穿の色は変わらないが確かにそれは笑ったと少年は確信した。骸たちの行列はそのまま過ぎていき、後続する骸骨たちはどれ一つとして二人を見ようとはしなかった。
 一頻り楽しんだところで、終わらない囃子を背中に二人は広場を後にした。興奮が閉ざしていた二人の口が開いたのは足下が砂利に戻ってからだった。
「あれ、なんだったんだ…?」
「あれはね、死んだ人のレイのぼんおどりだよ」
 盂蘭盆の夜に、人々が呼び慰める霊たちもまた自らを、そして遠い過去の精霊たちの魂に祈りを捧げるべく盆踊りをするのだと少女は語った。その際には外界に影響を及ぼさないようフウロソウの結界で彼らを封じるのだとも。向こうからは見えない、というのはその結界の力によるものだったのである。
「お前、なんでそんなこと…?」
 ふーん、と頷きながら彼の頭には当然の疑問が浮かぶ。この素性も知れない少女は一体何者であろうか?
「な・い・しょ!」
 そう微笑むと、少女は再び少年の横を抜けながら手を振り小走りに駆けだした。別れの合図のようなその身振りに驚き振り返った瞬間、電子音が叫んだ。
「――もうすぐ花火が上がります。ご観覧のみなさまは―――」
 歓声とともに人波が押し寄せる。小さな体にはその波に抗うだけの力はなく、人垣に閉ざされる寸前に見た白百合が網膜にちらつき、手にしたままの真白の花が風に揺られていた。


 少女の名前だけは掠れてしまったものの、鮮やかな幼少の思い出の奔流が俺の脳を駆けていった。あの日初めて出会い、ほんの数時間をともにした少女は誰だったのか。
 もしもあの日のことが夢でないならば、見間違いでもないならば、俺は確かに骸骨と視線を合わせていたのだ。結界を構成するフウロソウが一輪俺の手にあったからだ。あの結果、範囲が俺まで広がったのかそれとも壊れてしまっていたのかはわからない。その真偽は確かめようがない。
 振り向いた屋台に人はいなかったが、視線を凝らすと人の群に消えゆく白百合が見えた気がした。



 バナナ/波紋/紙コップ/死霊の盆踊り
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