1と1/4時間

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 山手線に揺られながら、窓の外を眺めていた。白から橙に染まりゆく陽の色は秒針さながらに時の経過を示しており、上野駅で京浜東北線に乗り換えた彼女はもう家に着く頃かもしれないなと計算してみる。ガラスに映ったヒトの顔は夕陽に染められて尚青白く、一切表情筋が使われていない顔からは、喜怒哀楽の一滴も漏れていなかった。
 酷い顔だ、と思う。せめて憤然としていれば、せめて泣いていれば、もっと人間らしく見えるのに。たった一本、耳から垂れるイヤホンコードより細い糸が切れただけでこの有様とは、存外に脆弱な自身の精神に嫌気が差す。
「えーっ、それほんと?」
「うん、虫の世界で一番強靭な糸を作るのは蜘蛛じゃなくて蓑虫なんだよ」
 普段なら雑音にもならない嬌声がイヤホンを貫いて俺に刺さる。爆発しろ、という呪詛より、こちらが爆発して殴り込みそうになる衝動をぐっと抑え、また外を見た。コンクリート製な筈の品川の街は、沈みゆく太陽の置土産で炎上していて、無機質なくせに生命感に溢れていた。でも俺は知っている。どんなに激しく燃え上がろうと、むしろ勢いがあればあるほど、万物は一瞬で朽ちきってしまうのだ。その後に残されるのは廃墟に違いない。それならばこの紅も燃えカスを引き立たせるための前座に過ぎないのだと、虚しさに目を伏せた。


 池袋駅、ドアのガラスから空を覗くと、蒼白い月が浮かんでいた。
『あれは、月が泣いてるんだよ』
 いつかの帰り道、蒼い月を見上げながら彼女はたしかにそう言った。遥か星空の彼方にある石の塊が、泣いていると。じゃあ紅い月は怒っているのかと尋ねると、はにかみながら首を振る。
『それは、照れてるの』
 今の君と同じだな、というと益々紅潮して、少しすねた顔で俺の一歩前にするりと抜け出した。その小さな背中を抱き締めたいと思ったのは、もう随分と前のこと。
 時折彼女が紡ぐ詩人のような言葉が、その後に見せるくしゃっとした笑顔が、なによりも好きだった。その瞳が映す世界を見たいと思ったし、それ以上にそこに在りたいと願った。もちろん、彼女の世界が移ろい易いことも、それが輝く理由ということも知っていた。だからこそ、在り続けることが当たり前にはなれなかったのだ。
 あれから幾度月は泣き、照れ、満面に笑顔を浮かべたことだろう。笑顔が多ければいい。でも、繰り返しの果てで、今、月は凍っている。


 上野駅で開いたドアの先は、奈落のように奥深い闇で俺を嗤った。彼女の踏み出して行った足跡がそこに見えた気がして、俺の意識は過去に飛ぶ。
 いずれ必ず訪れるとわかっていたこと。だがそれは、形も、時間も、あれとは違うものを考えていた。まだ間に合うと思っていたし、俺自身が望んでいなかったからだ。でも、思いと裏腹に淡々と話しているつもりだった俺は、彼女の潤んだ瞳の中に微かな安堵を見つけた。そこに安堵があることに、それにまた安堵した自分がいることに、俺は驚きと失望を抱かざるを得なかった。
 彼女は、俺から話しを切り出されるのを待っていたし、彼女が待っていたお陰で俺は、彼女のためなんだ、と言い訳できたのだ。互いが自身を守るために、俺たちは最良の選択をしてきたのだろう。いつかはわからないが、恋が終わってしまった遥か昔から。
『またね』
 彼女の言葉と笑顔を欺瞞とも世辞とも思わない。でもきっと、俺たちの未来は交わらないだろう。彼女は、或いは俺は電車を乗り換えてしまったから。行き先も描く先も変わった俺たちはもう、隣りの座席につくことはない。
「バイバイ」
 何時間か前に言えなかった言葉が、やっと零れ落ちた。


 当然のことながら、東京駅は人が多すぎた。表情もなく蠢く人の群れは、虫のようで気持ち悪い。
『悲しいよね?』
 彼女はよくそう言った。特に、多くを告げられたあの日から今日まで、何度その疑問を投げられたことだろうか。その度に俺は反射的に口角を吊り上げ、大丈夫だよ、と小さな嘘を与える。繰り返したその笑みが苦痛な仮面に変わった頃に、やっと彼女が発しているのが疑問符だと気が付いた。守るつもりでいた俺の嘘は、彼女を困惑させていたのだ。
『泣かないで』
 その言葉を口にするときの彼女はいつも悲しそうだったから、笑っていようと決めたんだ。なのに、そうして仮面を被った俺は何も見えなくなっていた。自分がついたのと同じだけの嘘を、泣き顔を隠すために彼女も吐いていたというのに。
 結果的に俺は『裏切られた』ことになっただけで、被害者面をしているだけで、二人の間に差異はないかもしれない。もちろん、世間からすればそんなことはないってわかっている。だけどそう、俺と彼女はイーブンなのだ。互角でなければいけない。どちらかがヒガイシャでいるうちは、先になんて進めないから。


 田町駅を電車が離れると、燃える町並みが一瞬フラッシュバックした。焼け跡と化した灰色世界を見るのが、怖い。死んだ闇ではなく、燃え盛る命の気配に触れたかった。もしもう一周早く俺の思考が回っていたら、違う気持ちであれに会えたのに。
 俺はいつもタイミングが悪い。ぐずぐずと思考を巡らせて、言葉を選んで、やっと出したものはいつも期を逸している。今だってそうだ。ここにいる間は進み続けているようで、先には向かっていない。ただ同じ場所をなぞっているだけ。
『大好きだよ』
 繰り返されたフレーズは可燃剤としての役目は果たしたけれど、二人をつなぎ止めはしなかった。その言葉に安心したくて、感じた疑問を押さえ付けて笑っていた俺は再着火の術を知らず、全てを焼尽くすより他なかったのだ。だから灰色の虚しさだけは、よく知っている。
 品川駅に滑り込む寸前、燃焼一時間後の町が姿を現す。そこにあったのは、焼けた廃墟でも無機質な灰色のコンクリートでもなく、ひたすらに静謐な異空間。夜の深い漆黒と、狭間にきらめく光の粒。月の涙も手伝ってか、微かに景色は潤んでいた。


 乗っていてわかったことは、新宿駅が最も人の出入りが激しいということだ。車内に溢れている人間の大半が入れ換わった様は、終わらない筈のループがそこで一度リセットされたかのような錯覚を引き起こす。
 だが、見分けのつかない人々は入れ換わろうと換わるまいとさほど意味を為さない。バラバラの顔をした人間たちは、それと同時に顔ナシの人間たちでもあったのだ。少なくとも、この車内にいる間はみんなそう。全ては等しく存在し、実在しない。だったら、紛い物のリセットをされる前に、思考が続いている間に、ここから出て行こう。もう十分だ。もうこの景色には飽きたから、次へ進もう。
 代々木駅、開いたドアから一歩外へ。降りてみればなんてことはない、振り返ることはない。冷たい夜風に逆らうようにホームを駆ける。階段を降って、昇って、発車寸前の総武線津田沼行へ駆け込んだら、風景が流れ出す。
 闇夜を滑る鉄の箱は銀色に黄色の閃光一筋、流星にでも飛び乗った気分で窓を見ると、少しだけ息を弾ませて笑う自分がいた。
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