ささやかな願い

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 紫陽花の便箋を開くと微かな墨の匂いがこぼれた。見慣れた細い文字を追いながら、未だ聞いたことのない声を想像してみる。小柄な彼女から低い声が発せられるのを想像して思わず笑いそうになる。彼女はいったいどんな声をしているのだろうか。筆談に苦労をしたことはなく、さらさらと筆を動かす横顔が好きなのだけど、声を聴いてみたいという気持ちはどうしたって消せずにいる。
 それに、こうした文通も直にできなくなってしまうのだろう。今でこそ表面上は学生の身分だが、半年もすれば僕の意思に関わらずこの身は帝国陸軍のものとなってしまうかもしれないのだから。そうなれば郵便の類への検閲は免れないし、定期的に届けば差出人の身元も調査され、彼女が黒軍に所属するのだと情報部がつかめばどんな迷惑をかけてしまうのか想像するだけでも恐ろしい。
「お兄ちゃん」
 部屋の戸を僅かに開いてどこか申し訳なさそうな薫が顔を出した。彼と暮らし始めてから数年経つが、家にいてこうして顔を合わせなかったことはほとんどないだろう。異母兄の僕によく懐いてくれた義弟は、折り合いの悪かった僕と義母をなんとか繋いでくれていた橋だった。残念なことに義母は三年前に出奔して以来なんの連絡もなく、薫には随分と寂しい思いをさせてさせてしまっていることだろう。
「どうしましたか」
 言いながら台所へと向かうべく立ち上がる。そろそろ夕飯の支度をする時間かもしれない。帰宅してすぐに手紙を開いていたからまだなんの準備も始めていなかった。冷蔵庫にはなにがあっただろうか。
「うん、来週の七夕なんだけど、夏祭り行くから夕飯食べてきてもいい?」
「もちろんですよ。でも、あまり遅くならないようにしてくださいね」
 途端に緊張を崩して笑うと、早口に礼を言って顔を引っ込める。本当はそんなことは僕に伺いをたてる必要はないのに、やはりどこか気を使っているのだろう、薫はなにかにつけては僕に許可を取りたがる。ひょっとすると前の父親の影響なのかもしれないが、それを尋ねるほどには僕と彼の心的距離は近くない。そのうちに覚えてくれればいいのだ、自分が一人で生きていけることを。
 来週には七夕がくるということなどすっかり忘れてしまっていた。このところ戦況があまりよろしくないのか学生連隊の実践投入も増えてきている。届く手紙の不定期なところを見ると向こうの情勢も同じようなものなのだろうか。息抜きになるかはわからないが、息抜きが必要かもわからないが、夕飯の支度が終わったら返事を書こう。


 湿気を含んだ空気は嫌な汗を滲ませた。肌に纏わりつく鬱陶しさはもとより、雨の予感が心的な汗を呼ぶのだ。薫と一緒に昨晩吊した坊主はいったい仕事をなんだと思っているのだろうか。なによりも僕を動揺させたのは、そのことにひどく心を奪われている自分がいるということだ。お陰で武芸鍛錬の時間では相手の木刀を折ってしまうし、それどころかそのまま叩き伏せてしまった。かねてから僕の寸止め癖を嫌っていた教官は大層喜んだが、その賛辞にさえも上の空になってしまう。
 放課になると級友の声を適当に流して早々に退校した。夕暮れの帰路に笹が並んでいるのを見て、また気が急いてくる。街並みは笹を燃やして真っ赤に染まっているが、今朝頃の湿気が嘘のように乾いており、笹を揺らす夏風は夕涼みに誘ってかどこぞの風鈴を鳴らしていた。
「ただいま」
 言ってから薫はまだ帰ってきていないことを思い出す。今年も素麺を茹でようかと思っていただけだから夕飯のないのはまるで苦労しないのだが、薫もおらず、鍛錬も行かないとなると自分の生活は思っていたよりも色のないものだと気づかざるをえない。勿論、読みかけの書があれば書きかけの課題もあるが、如何せん、そういう心持ちにはなれそうもない。
 仕方ない、もう着替えて神社へ行こう。この調子だと一時間は前に着くことになりそうだが仕方ない。僕にはどうしたってこの焦燥めいた感情を留めておく術がないようなのだから。濃紺の竜田川は少し古めかしいだろうかと今更に不安が頭をよぎるが、ええいままよと雪駄をひっかければもうあとは歩くより他なかった。
 神社に向かう道は浴衣の人で溢れていた。すると柄や着具合にどうも目がいくもので、モダン柄はどうも好かないだの、あれは着崩れがひどいだのと頭の中は文句で埋まってしまう。舶来ものが肌に合わないなんて言い続けるとどこぞに目を付けられてしまうかもしれないが、僕は古来のものの方が好きだ。
 遠目に、白百合の浴衣が映る。地は紺だろうか、黒だろうか、薄く暮れ始めた中に咲く百合は印象深い。小柄な人のようだが、凛とした佇まいが彼女を少し大きく見せて、白く浮かぶ横顔と華は吊り提灯に照らされて輝いていた。
 巾着から時計を出して見ると十八時を少し回ったところで、約束の時間まではやはり一時間もあり、仕方ないから浴衣見でもしながら待つとしようと、入り口を少し外して眺め始める。男性は思ったよりも浴衣が少なく、いても刺子縞や格子で、やはり竜田はまずかったかもしれない。女性は最近の流行なのだろう、黄や桃のように華やいだ色のものが多い。金魚や風鈴も涼しげでいいが、華模様がもう少しいてもいいものじゃないだろうか。
 ふと視線を感じて横を見やる。先ほどの白百合の君が俯いているばかりで他には誰も足を止めていない。物思いしているような悩ましい横顔から目が離せなくなる。どこかで見知った人だろうか、胸元でなにかが囁いて呼吸を妨げ、面影を重ねるようにちらちらと揺れる。彼女のように美しく着られれば着物も幸せであろうにと眺めていると、不意に顔がこちらを向いた。ほの白い小顔の中からこちらを見つめる感情の薄い緑眼は、
「ひなたさん……!?」
 僕が着いたのは約束の一時間前で、その道で遠目にもう見えていたことを考えるといったい彼女はいつから待っていたのだろうか。慌てて駆け寄ると少しむくれた顔で一筆箋を差し出す。
『どうしてすぐ声をかけてくださらなかったのですか』
「いえ、まさかこんなに早くいらしているとは思わず……すみません」
『随分こちらを気になさっていたようですけど』
 それを言われると僕としても心苦しいところなのだ。思わず見惚れてしまっていたのだとはとてもじゃないが言えるわけもなく、事実の一部だけを伝えることにした。
「いえ、あまりに綺麗に着ていらっしゃる方だなと思ったので、と、それより!」
 紅くなって一瞬固まった彼女の手から一筆箋と筆筒を抜き取る。きょとん、と小鳥のように首を倒した彼女に向かって言い放つ。
「せっかくの浴衣についたら大変ですから、今日は、筆は禁止ですよ」
 おまけでにこりと笑ってみせると、事態を飲み込めたのか慌てて手を伸ばしてくる。今まで見たことのない焦りと驚きの表情は妙に幼くてかわいらしい。突き出される手をひらりひらりと躱しながら手を高く上げると、上背で劣る彼女ではどうすることもできずにただ恨めし気に見上げるばかりになった。
「絶対につけない、なんて人込みでどうなるかわからないでしょう? 大丈夫です、貴女のことを見ていれば、わかりますよ」
 やや俯いて、またこちらを見上げると、またそろそろと左手を伸ばしてくる。袂に没収品をしまい、握ってみる。剣だこで硬くなった僕の手と違い、彼女の手はやはり女の子の手で、小さくて柔らかかった。戦場でぶつかればどちらが死すともわからないほどの腕前の少女は、こんなにも繊細で、優美で、そして愛おしい。見ると妙に楽しげに僕を見つめる瞳と視線がぶつかる。
「な、なんですか……?」
 上機嫌で首を振った彼女は神社の中へと僕を導く。その小さな背中を抱きしめたいと思う。これほど近くにいられることなどほとんどない。今しかないのではないかなんて、弱気な心が囁いている。だから駄目だ。臆病な心で抱きしめることは僕が許さない。遠い花火の音に二人立ち止まって空を見上げると、花火など霞んで見えないほどに強く輝く光の帯が空を貫いている。これほどはっきり出ているならば、両星は逢えたことだろう。

 渡り橋 星の河だに あるものを
       我こそ行かめ 姫のおりける

 呟いた途端にまたこちらを見上げて、例の小鳥のような仕草で問いかけてくる。僕なんかよりよっぽど気のつく人だ。なんでもありませんよ、と笑って、今は少しだけ強く手を握って歩いた。

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