白刃の君

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 生まれてくる時代を間違えたのだと思った。過去の歴史を学べば学ぶほどにそれを感じていた。例えば平安の世であったなら、和歌と漢詩を詠んで暮らしていただろう。例えば平成の世であったなら、学問を追い求めて生きただろう。自分に剣術の才が乏しいとは思わない。むしろ、父のツテで帝国陸軍に混じって鍛錬させてもらったおかげで中学卒業を前にした今は同輩に遅れをとることはないと言ってもいいだろう。それでも、この時代ではないのだ。もっと争いのない平和な時代に生まれてみたかった。揺れる白刃を前にして僕が思ったのは、そんな夢にもならないことだった。

「夕霧君!」
 義母の叫び声が耳を貫く。安心してください、という意をこめて微笑むと彼女はいっそう怯えたようだった。無理もないか、居間の奥にいる彼女と入り口に立つ僕の間には抜き身の刀を携えた黒い軍服の男がいるのだから。男の腹部から流れる血から察するに、追討を受けている最中に人質を取るためか、或いは休息するために侵入したのだろう。この部屋から玄関を出るには僕の背にある扉を通らなければならず、義母の逃げ場は奥の寝室しかない。
「夕霧君、助けて……」
 義母の哀願は聞きたいところだが、なにしろこちらは買い物籠の他は無手である。手負いとはいえ正規軍人らしい男に無為に突撃したくはない。剣道三倍段という言葉が正しいならば僕は彼の三倍の力量を求められているわけだから、むしろ戦わない選択肢を探す方が賢明ではないだろうか。
「あなたの目的は、」
「葵葉中将の息子だな?」
 その一言で和平の道は途絶えた。彼の軍服は父、葵葉光とは違う組織に所属していることを示している。彼にとって僕は逃がすわけにいかない相手だということだ。そしてもう一人、
「つまりこのガキは葵葉薫だな」
 彼が刃を向けた先にはまだ五つにもならない義弟、薫が刃物の危険性もわからずにすまし顔をしている。義母の必死の叫びがこちらの素性を曝し、かえって危機へと陥れてしまったとは皮肉なものだ。おとなしく捕まれば薫に危害を加えはしないだろうか。いや、そんなはずはない。最終的に薫も義母も殺されるだろう。見せしめか、あるいは交渉の道具に利用された後で。つまり今ここが、二人を助けるなら最後の機会だ。仕方ないなあ。
「薫、お義母さんと一緒に奥で待っていてください。お兄ちゃんはこの人と少しお話ししますから」
 薫は素直に頷くと腰の抜けているらしい義母の手を引いて寝室へと向かおうとする。それを追って身を返した男の後頭部に買い物籠が当たった。
「あぁ?」
 発された声は怒気をはらんでいて、かえっていくらか安心する。少なくともこの男には背後からの投擲物を斬り落とすだけの実力はないらしい。それに怒りの沸点が低いならば、気を引くのもたやすい。怒らせればいいだけだからだ。それで僕を殺しに来るのなら時間が稼げる。
「あなたは、強くない。逃げ切れませんよ」
 そう言いながらふっと笑って見せる。見る見る顔が赤くなり、殺気が飛んだ。あとは、義母が軍部に救援を呼び、それが来るまでの間足止めすることだけを考えればいい。じわじわと間合いを詰めてくる男を見つめながら意識的に力を抜いた。格上相手に気負いがあってはいけない。逃げるわけにはいかないのだから。
「シッ」
 声とともに光が伸びる。反射的に身を引いた僕の頬を、掠めた光が焦がす。二閃、三閃と続けざまにうねる光が身体を這い回り、命を吸わんと舐め回る。飛び散った血が床や壁を濡らすのを見て、家の価値が下がってしまうなと後悔した。大振りできないのが幸いして身体を寝室の前まで反転させることには成功したが、刀を振り回すには狭い室内は躱す余地も少ないということで、たちまち僕の背と壁は隣り合わせになった。
「葵葉中将の息子って言ってもまだガキだな。刃物が怖くて逃げ回るようじゃあ実戦じゃ使えねえ」
 武功の高さで知られる父だが、稽古をつけてもらったことなど数えるほどしかない。それでも僕は感謝している。この状況になってみて初めて、素直にそう思えた気がするのは親不孝なことだ。
「それじゃあ、見せしめになってもらおうか」
 男の刃が右下から喉元へと振りあげられる。切っ先は僕の喉笛を斬り裂いて首を落とすだろう。ああ、父よ、感謝します。僕を強くしてくれてありがとうございました。
 感傷に浸ったせいで少し遅れた反応の代償は首を流れる一筋の紅。微かに触れた剣先が皮膚を食い破ったのだ。しかし刃は動かない。鍔元を受け止めて握る左手が悲鳴をあげられないほどに痛んでいたが、斬り落とされてはいないようで安心した。
「放せっ……」
 刀を引こうと焦る男の隙だらけな脇腹に蹴りをねじ込むと悶絶して転がった。丁度彼が血を流している箇所だから、以前にも同じようになったに違いない。手を放して刀を床に落としてから、全身が冷や汗でひどく濡れていることに気がついた。
 たしかに、直接父に稽古をつけてもらったことなど数えるほどしかなかった。だが父は必ず真剣を用いて容赦なく僕を叩きのめした。それに比べればこの男の殺気も剣技も恐れるほどではなかったのは間違いない。それでも皮でなく肉まで刃が達した瞬間に冷たい恐怖を覚えずにはいられなかった。
 床に横たわる刀を見つめる。そこについた血はすべて自分のものだ。本当は、刃を潜りながら身を灼くような快楽物質を分泌していたことも、刀を受けた瞬間に勝利に酔ったことも気づいていた。どうかしている。こんなことを学生までが知っているなんて、同じ国の人間同士でするなんてどうかしてしまっている。
 とにかく今はあの男を縛り上げて軍からの救護を待たなければと、縄の仕舞ってある棚へ身体を向ける。
 ――――トスッ
 軽い音だった。追いかけてくる痛みも、それほどのものではなかった。しかし、背後から右肩に刺さったナイフが僕に与えた衝撃は大きかった。
(二人目か……)
 おそらく軍人に踏み込まれたときのために奇襲要員を忍ばせていたのだろう。とっさに刀を拾い上げるが手のひらの肉を中程まで割られた利き腕と、肩にナイフの刺さった逆腕ではどちらがましかという程度で、構えてはみたものの振ることもままならないだろう。
 ナイフを構えた男の軍服は、黒。しかも怪我はないようで、当然ながら隙もない。せめて一太刀でも耐えて、時間を作らなければ。男の突進をかろうじて刀身で受けるが、力が入らずに突き飛ばされて膝をつく。刀を手放さなかったのは幸いで、二撃目の振り下ろしも受け止めるが、両の腕はとうに泣き枯れていてあといくらも止めていられそうになかった。血か汗かわからないぬめりが腕を伝う。限界だ。後は刺された後に捕まえるしかない。
 押し潰されるように身体が沈む。そうなると負荷に耐えかねた筋肉が喚き始める。十二分に体勢が崩れたところで敵は三撃目へと腕を振りかぶった。刀から手を放し、男の身体を捕らえにいく。
「離れなさい」
 僕と男の間を白い光が走った。光は壁に刺さって刀へと姿を変える。
「あなた方を確保にきました。おとなしくしたほうが身のためですよ?」
 声の主を見やると帝国軍に属する高校のブレザーに身を包んだ細身の女性。長い黒髪を一つにまとめ、背はさほど高くないが、堂々とした立ち姿が彼女を大きく見せる。僕は自分の真上にいる敵も忘れてその威風堂々たる姿に見入った。彼女は腰の刀に手を添えながらまっすぐにこちらへと進んでくる。
「調子に乗るなよ、ハクトぉ」
 ナイフ男は立ち上がると腰から拳銃を引き抜き、彼女へと向ける。僕がナイフ男の足を蹴って払うのと、少女の数センチ横を弾丸が通過するのがほぼ同時、彼女の刀が銃身を斬り裂き、暴発した銃が男の手を焼くのと更なる銀閃が彼の身体を舐めるのもやはりほぼ同時だった。
「ありがとう、夕霧くん」
 倒れた男の上で彼女は凛として微笑んだ。本当は僕の助けなど要らなかったかもしれない。それでも彼女が心の底から礼を言ったことはわかった。僕と幾つも違わないであろうこの少女の中には既に芯が通っているのが見えるようだ。思いの外幼い顔の唇の端には、小さなえくぼができていた。

「お義母さん、薫、怪我はありませんか」
 義母は僕の問いには答えなかった。ただ事務的に救護にきた女性に礼を述べたあとは黙って何かを考え込んでいるようだった。
「おにーちゃん、て、だいじょうぶ?」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます」
 包帯を巻いたといっても左手は真っ赤で、とても隠しきれるけがではない。止血した他の傷も痛んで熱を帯びてきているのがわかる。それでも微笑んでみせると、よかったぁと笑って義母の元に向かう。薫は優しい子だ。母と僕の間にある微妙な空気を感じ取って話しかけてくれる。小さいうちからこんなに気を遣っていては先が心配になるほどに。
「あんたら親子のせいなのに」
 薫を目で追いかけた僕は義母からこぼれた言葉を聞き逃すことができなかった。独り言のつもりなのだろう。彼女の口から葵葉に対する呪詛がぼそぼそと流れている。薫が意味を解せずに首を捻っているのがせめてもの救いだが、やはり困ってしまう。悪気はないとわかるから、それを拾い上げて怒ることもできないうえに、彼女の言うことはおそらく正しい。それがどんなに理不尽でも、だ。
「夕霧くん、ちょっといい?」
 呼ばれていくと先ほどよりも随分柔らかい表情になった少女が申し訳なさそうに告げる。歳の近さのせいか、どうにも彼女は僕に親しげだ。
「わたし、もう行かないといけないから、後任がくるまでもう少しここをお願いね。なにかあったらここに電話をちょうだい」
 差し出されたメモを仕舞い礼を言うと、彼女は困ったように目を伏せた。何を言いあぐねているのだろうと不審がる僕に、左手を見つめながらぽつりと言う。
「あのね、夕霧くん、無理しちゃだめだよ?」
 その言葉に胸を打たれたわけではない。出会ったばかりの少女に何がわかるとも思わない。乱暴に言えば余計なお世話だ。だけど、僕が欲しかったのはその余計なお世話だったのかもしれない。そこに居て欲しくて思わず彼女の袖口を掴むと、一歩近づいてきた彼女の肩に顔を引き寄せられた。後頭部を撫ぜる手は暖かく、緩やかな調子は心を落ち着かせた。
「何もなくても電話していいよ」
 どうも彼女は僕の心を見透かしているようだ。薫も彼女のような人になるのだろうか。刀も、心も、僕など到底及ばない強さを持ったこの女性のように。彼女のようになれたなら、僕もこの時代に生きていけるのだろうか。
「電話は苦手なので、手紙でもいいですか」
 顔をあげてそう言うと、彼女は初めてきょとんとした顔を見せた。油断した顔はやはり幼く、自分の言動が信じられなくなる。
「もちろん。それと、これも」
 

 竹刀を振るう度に、軍刀を磨く度に、自分の性分とすれ違う感覚に襲われていた。この時代のこの国には、今の己の居場所はないのだと、雪の中に消えていった義母の荷物を整理しながら、ふとそう確信した。


「お義母さんはもう帰ってこないそうです。薫は置いていくと」
 久しぶりに帰宅した父、葵葉光にそう告げると、そうか、と一言だけ返ってきた。軍務に追われる彼の精神を乱すようなことをするのは酷かもしれないなどという気遣いは無用だと知っていたが、表情の伺い知れない声色は少しく精神を逆撫でした。どうしてそう無関心でいられるのだろうか。実母の倍近い時間を過ごしてはいたが、後妻である彼女に対して自分自身は特に懐いてはいなかった。しかし、彼にとっては愛して娶った妻ではないか。薫も含めた家族であっただろうに、居なくなったことに全く関心を示さない。それが軍務の忙しさのせいというのなら、自分は軍になど入ってたまるものかとさえ思う。
「お前には、母親が必要だと思っただけだ。迷惑をかけたな」
 たしかに実母に僕はよく懐いていた。だがそれだけのために妻をとれるほど軽い身の上でも性分でもなかったはずではないか。僕の憤りをよそに父はもう話は終わったとばかりに僕を呼ぶ。
「夕霧」
 手招きを受けて近づくと、渡されたのは二尺より少しあるかという小さめの日本刀だった。白鞘に薄蒼の柄巻きと、唾に彫られた葉の他は飾り気のない簡素な拵だ。そしてなにより、これは軍刀ではない。
「遅くなったが、元服の祝いだ。お前には軍刀よりも性に合うだろう」
 もしかしたら、父は僕が帝国軍属を嫌っているとわかっているのだろうか。帝国軍中将の息子という立場でそれを拒むということは、道は二つだ。赤か、黒か。スタンダールじゃないんだからって、そんな冗談はおよそ武人らしくない。
「春からは、帝国軍属の高校に行きます」
 僕の言葉に父は少なからず驚いたようだ。覚悟の上でのこの刀だったに違いない。本当は、行くつもりも行かないつもりもなかった。だけど彼女は帝国軍属の人間だ。ただそれだけのことでしかないけれど、僕がこの世界に居るためにはそれでも必要なことだと思う。

 刀と共に自室に戻ると、彼女から受け取った刀の隣に父の刀を置く。全く同じ薄蒼の柄巻きと白鞘だけの飾り気のない太刀。五寸近く長い長刀は楕円の鍔に雲が彫り込まれている。彼女のように小柄な女性が持っていたにしてはいささか大振りのようにも思える。拵が似ているのは偶然か、それとも。雲の太刀を手に取ると、別れ際の彼女の言葉が蘇る。
『また、また会おうね、夕霧くん』
 壁に背を預けて座り込み、雲の太刀を肩に立てかける。今日は少し気分がいいから、よく眠れる気がした。こんなくだらない、寂しい世界でも。
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