第零章

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 巨大な光が闇を蹴散らしながらゆっくりと空を裂いていくのを、少年は視界の端で捉えていた。構えた木剣の先がゆらゆら揺れる。視線の先では、体毛をかき分けて額から一角を伸ばす四足獣が剣先に応えるようにその身を震わせた。膠着状態に陥ってから幾時かが過ぎ、少年の精神は限界に達そうとしていた。そうでなければ、視界の隅を走る光には気づきもしなかったに違いない。
 逸らしていた意識を正そうと少年が意識を傾けたとき、無心で保っていた構えが僅かに揺らぐ。幾多の狩りを越えてきた獣がその瞬間を逃すはずもなかった。風のような唸りとともに灰褐色の体躯が跳ねる。野生の筋力はヒトにして数歩分の間合いを一跳びで無にし、柔い肉体へと牙を突きたてんと顎を下ろした。
 鋭い短音を発しながら木剣が空を斬って獣の首を打ち据える。肉越しに骨に木がぶつかる鈍い手応えに少年は顔をしかめた。払ったとはいえ跳躍速度が上乗せされた獣の体重を彼の細腕でいなしきれるわけはなく、少年は打ち落としながらもよろめいて後退せざるをえなかった。
 腕を駆ける痺れが反応の遅れによって斬撃の角度が鈍ったことを訴えて、足の震えは実践経験のなさを突きつける。止めを刺さねばと降ろした視線と魔獣の赤い瞳が交差した瞬間に少年は自らと敵の関係を思い知った。
「だぁーーっ!!」
 捕食者の眼に恐怖を煽られて窮鼠の放った一撃は、その紅の球体ごと脳髄を貫いて頭蓋を内側から粉砕した。ギギッ、ギッ、と獣が漏らす音を断末魔と理解したのはそれが灰塵とともに散ってからだった。
 手に残る命を絶ちきった感覚が嘔吐感を形成し、それと同時に安堵が顔を出して少年は大きく息を吐いた。一歩間違えれば今頃肉塊に変わっていたかもしれないと思うと、足がまた震えだす。
(もうここにくるのはやめよう……)
 創家以来の天才と謳われ、弱冠十三歳にして王国騎士団に名を連ねた長兄に追いつこうと、彼のように周囲に認められようと始めた夜稽古。その場所に選んだのは、騎士のみが入ることを許された禁忌の森だった。誰にも見られないだけの都合で選んだ己の愚かさに少年は唇を噛んだ。全身に溢れる疲れの重さと呼気の乱れが彼を地面へと引きずり降ろす。
(兄さんなら魔獣の一体くらい余裕なんだろうなぁ)
 憧れると同時に沸き上がる嫉妬に彼は気づいていない。父の、母の、周囲の期待を全身に受け応える背中を見るたびに自己の内側に燃える感情はひたすら稽古にぶつけてきた。しかし少年の熱情とは裏腹に周りから寄せられる視線は変わらず冷ややかで、認められるためだけに積む鍛錬は焦燥を募らせるばかりだった。
 呼吸を整えたところで木剣を杖に身を起こす。空は全くの闇から暁へと移りかけていて、帰宅して水浴びをしてと思うとあまり時間は残されていない。ふらつく身体をようやく立たせたところで、少年の目は異変を捉えた。
 地面に穿たれた夜色。吹き出す音は風か、もしくはなにか巨大な生き物の唸り声に似て、確実に先ほどまでは存在しなかったそれに少年の足は吹い寄せられていく。
 近づいて見たそれは穴のようだった。奥底の見えないそれは暗い黒い無限回廊のように地底へと伸びている。放出される音は最早轟音と呼んで差し支えなく、少年の聴覚は悲鳴を上げ始めていた。そこにあるのが穴なのか、その空間性を確かめようと左手を伸ばした、刹那、
 音を引き連れて吹き出した暗い『なにか』が少年の左手にぶつかる。反射的に握った手を実体のない『なにか』が貫いて空の彼方へと失せてゆく。呆気にとられた彼の前に続けざまに次なる異変が文字通り姿を現した。
 一時だけ静かになった穴から漏れるのは狭い路地に無理矢理肉体をねじ込むような擦過音。音の増大からではなく感じるその正体の接近に少年の背中を冷や汗が伝った。
 黒を切り分けて現れたのは見覚えのある銀色の突起物すなわち、魔獣の角。全身を襲う悪寒と冷や汗に少年の身体は為す術もなく凍り付いた。燃える瞳、黄ばんだ牙、灰褐色の毛皮に覆われた体躯、這いだしてきたそれは先刻灰と化したものと明らかに同種の、それでいてより大型の生物で、魔獣が大地から生まれ出たという現実にまだ幼い意識が凍結するのは仕方のないことではあった。しかし、敵を前にして思考を止めるのは許されざる時間の投棄。その代償は支払わなければならない。
「……っぁ!」
 氷を溶かしたのは左足に牙が食いこむ激痛。痛覚の処理能力を超えたそれは足が炎上したような錯覚を彼にもたらした。神経系が痛みを訴える信号で渋滞して運動命令が脳幹から出られず、その間に傾いた身体を這い上がった顎は続けざまに右の脇腹を抉り、おびただしい量の血液とともに少年の意識を噴出させて地面を濡らした。
 慣性の導くままに倒れ込んだ地面はむき出しの内部を刺激して、無理矢理彼に自我を引き戻す。霞む視界の中で少年は、肉を食む獣が悦んでいるのを見て取った。
(兄さんなら、)
 血溜まりに沈む身体の操縦権は最早失われており、どうしようもないという事実がかえって一度彼を冷静にした。
(兄さんならこんな失敗はしないだろうな)
 冷めた脳裏に浮かぶのは眩しい兄の姿と失望に眉を寄せる父の顔で、一度としてその期待に応えられなかった自責と後悔が渦を巻く。もう挽回の機会は失われるのだと気づいた少年に浮かんだ気持ちは悔しさだった。父を、他の大人たちを、見返すことはできない。常々思われてきた通りに自分に剣才はなくそれ故に死んでいく。それが、それだけが、己に下される永久の評価。
(それは、いやだ……!)
 瞬間的に沸騰した脳をしかし血液の不足が冷やしていく。食いちぎった肉を飲み込んで魔獣が再度少年を見る。飢えた瞳が捉える自分を餌と自覚しながら、霞む意識の中で少年の願いは一つに集約されていった。
(生きたい……!)
 自分の存在を証明するためには剣しかなく、そのためには生き延びるよりほかない。冷たい死に瀕した思考の淵で燃え盛る生への渇望を少年は感じていた。しかし流れ出た血は彼の精神と肉体を分離して、腕はおろか指の先すら動かせない未熟な己に歯噛みする力さえも意識の下にはない。
 魔獣が己の胃袋を満たさんと動き出し、少年の血を踏んで湿った音をたてた。それほどに彼と魔獣は、死は、近くにあった。近づきつつあるその死の背後を光が駆け上がっていくのを少年は見た。まだ暗い空を走るそれはまるで逆向きの流星のようで、彼がそう意識したときにはもう願いがこぼれていた。
「いき、たい……」
 口を開いていた魔獣が身震いを一つ。続いて全身の毛を逆立てるやいなや身を翻した、その横を一条の細い光が突き抜ける。光はそのまま吸い込まれるように少年の右脇へ刺さり、辺りを照らした。現状を理解した少年と、再度身体を反転させた魔獣とが悲鳴を上げたのはほぼ同時。
「なんだよこれっ……!」
 食い痕から体内に侵入して内臓を刺しているはずのそれに痛みがないことに彼が気がついたのは叫んだ後で、自分が悲鳴を上げていたということに気がついたのはその更に後だった。自分の肉体のどこにそんな余力がと訝しむ彼を余所に魔獣は足裏から煙を上げながら後ずさり、大地を踏んではまた苦悶の唸りを発し跳ね回る。
 脇の光を観察した少年はその中に翼の形を認めた。清らかで柔らかそうなそれは、どんな鳥のものとも違う神聖さを帯びて、彼の体内に確実に侵入していく。本能的に自分の理解を超えていることを察した彼は光から視線を切った。優先すべきは眼前でのたうつ敵だと、木剣を左手によろよろと立ち上がる。
 呻くのを止めた魔獣と血の海を挟んで睨み合う。しかし立ったものの駆けていくほどの力はなく、少年には受け手に回るほか選択肢はなかった。敵へと意識を集めていく彼の視界の左端で茂みが揺れる。その瞬間、魔獣が跳躍した。振り降ろされる爪をかわして後ろへ一歩、着地と同時の噛みつきからまた一歩。頭を差し出すような形になった魔獣の眼球を貫くべく腕を引いた彼へと魔獣の身体が再び進む。
「なっ……」
 身を捻る余裕はなく、少年の肩に角が突き刺さり骨にぶつかって止まった。声にならない痛みに剣が止まり、今更のように涙が滲む。
 足下から肉の焼ける音をたてながら魔獣が四肢に力を込め、少年の肩の骨が軋み始めたそのとき、横合いから飛び出してきた小さな影が魔獣に体当たりした。年齢は少年と同じくらいであろうか、短い金髪に銀の髪飾りを挿した見知らぬ少女は、力押しではびくともしないと悟るやいなや獣の顔面に足下の血を掬ってかけた。
「ギィアアアァァァァッ」
 耳をつんざく悲鳴を残し魔獣が血の海の外へと退避する。刺さった角の支えが消え、再び地面に崩れ落ちた少年の頬を少女が血塗れの手で掴んだ。
「ーーーーー!!」
 喉を空気がこする音が微かに漏れるばかりで、彼女の口から言葉は出ない。それでも少年は彼女の意図を読みとった。
『死なないで』
 全くの他人である自分のために命がけで飛び込んできた少女に、彼女の放った言葉に、少年は涙がこぼれるのを自覚した。
「ーーーーーーーーーー!」
 唇と表情とが少女の意志を彼に伝える。
『あなたがひつようなの』
 理解して息を呑んだ少年は、それと同時に少女の背後に飛びかかってくる魔獣の姿を捉えた。震える右手で彼女を引き寄せ、抱きかかえるように左の剣を振り抜く。渾身の力を込めた一撃の最中、左腕が内側から炎上するのを感じて少年は顔を歪めた。続けざまに重い手応え、辺りに粉砕音が響く。
(やばい……!)
 手に伝わる衝撃に少年は木剣が折れたことを悟り、武器を失ったことに焦りながら魔獣の姿を確認して驚く。
 体毛についた紅からは煙が上がり、その顔面は強酸をかけられたかのように焼け爛れてところどころ骨が覗いている。そして、先ほどまで肩を貫いていた銀角は中程から完全に折れていた。角の喪失が戦意の喪失へと繋がったのか、ぎらつく獰猛性はなりを潜め、怯えた眼に彼の視線がぶつかった途端に背中を向けて駆けて行った。
 安堵する少年の腕の中で少女がもぞもぞと動く。慌てて腕を離した彼に、頬を濡らした少女が抱きついた。胸で泣き続ける少女は震えており、少年は少し戸惑ったのちに決意を固めて再度身を離し、ひざまずいた。
「あなたが天を行くのなら」
 嗚咽を漏らす少女に彼は頭を下げる。
「のぼりかけるつばさとなり」
 独りなら死んだであろうの自分が生きている理由を思い、見せられた心を尊び、言葉を紡ぐ。
「あなたが海を進むなら、波をわけるかいとなり」
 死線の中でもたらされた幸福は彼の胸にまだ響いていた。
「あなたが大地をふむのなら、いばらをひらく刃となり」
 少女が何者かを彼は知らない。しかしつき動かされた魂の前に素性は関係なかった。彼の欲しかった言葉はもう与えられていた。
「わが血のいってきにいたるまであなたにささぐことをここに誓いましょう」
 顔を上げ、少女の顔を見る。頬に残った涙をそっとぬぐい、少年は微笑んだ。
「ぼくの剣を、うけとってくれますか?」
 こくん、と頷いた彼女に少年は木剣を差し出しかけて折れていることを思いだし、地面に刺して代わりに腰のダガーを鞘ごと外して捧げ持った。ダガーの柄を少女の細い指が握り少年の手から離れていく。
「今からぼくはあなたの騎士です。騎士、ロイ=アリコネロと申します」
 再び頭を下げようとしたロイの肩に少女が触れる。ゆっくりと動かした口から伝わる言葉。
『ありがとう』
 言葉を返そうと口を開いた彼の体内で、何かが燃えた。口から漏れたのは臓物を襲う灼熱の痛みへの呻きで、思わず噛みしめた歯がこすれて嫌な音をたてる。内部で蒸発した水分が全身から冷や汗となって吹き出し、震えを連れてきて、燃える臓器を探ろうと腹に当てた左手が誘発されるように炎上した。こらえきれずに食いしばった歯の隙間から声が溢れだした。徐々に光を失っていく視界の中で、少年は主君の口が『だいじょうぶ』、と動くのを確かに見た。
 次に見たものは、見慣れた自室の天井だった。感じるものは布団が吸った自分の体温だけで、炎熱は記憶の中にしかない。
「ロイ、禁忌の森に入ったな」
 降ってきた低い声に少年の思考が停止する。視界に現れた父の顔には表情がなく、嘘を吐き通すことの困難さが見てとれた。
「魔獣の角と折れた剣を持って帰ってきて言い訳など考えるな」
 表情の変化を読んだ父の先回りに少年は抵抗を諦めて頷いた。謝るべく身を起こすと枕元の机に角と銀の髪飾りが置かれているのが目についた。
「父さん、ぼくは、」
「まだ寝ていろ。理由は後で聞く」
 突き放すように部屋を去る背中を見送って、少年は溜め息を吐く。そして枕元の髪飾りを手に取ると、弄ぶように宙へと放り上げた。


 手に落ちてきた髪飾りを慣れた動きで髪に挿し、ロイは剣帯に手をやった。使い慣れたロングソードの重みを確認して青年は位置を微調整して鏡を見、革の鎧と鋼の胸当て、左腰に差した剣と、装備に異常がないことを確認していく。十一年使い続けた髪飾りは手にしたときよりはくすんできているものの、こまめに手入れをしてきた甲斐あって銀の光は失われていない。
 十一年前の夜、屋敷の前にはロイ一人が転がっていたという。右肩と右脇、左足と三カ所に負ったはずの大怪我は既に瘡蓋が埋めていて、今はただの傷痕でしかない。髪飾りの本当の持ち主である少女を見た者は誰もいなかった。
「ロイ、行くぞ」
 父の声に返事をして追憶から現実へ。外套を羽織り踵を返した彼の肩で、王国騎士の紋章が朝日を弾いて煌めいた。
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